アイティーアイ株式会社


                                                   ICT専任部  荒木 幸雄


いよいよ投稿する順番が回って来てしまった。なかなか筆が進まないのだが今までを振り返るのにちょうど良い機会であるので、徒然なるままに書いてみたいと思う。

私が入社したのは昭和55年、1980年である。この年は大平首相の急死やジョンレノンが射殺された年である。この7月に当時の市川社長のご配慮で入社させて頂くことになった。厳密に云えば中途入社であるが、4月入社の土橋、岡田両君と同期扱いをしてもらっている。




 


入社してからの仕事は「商品開発課」という今まで扱ってこなかった商品を手掛けていこうとする部門であったが、実際は勤務されておられる医師の新規開業をお手伝いするものであった。

鬼軍曹と言われた竹尾課長とベテランの高比良さんの3人で、その時は長崎市内の天本泌尿器科医院と鹿島の納富病院、北九州の黒崎クリニック(現在の王子病院)の三施設の開業をほぼ同時に手掛けた。新米の私は、竹尾課長の雨あられのような指示ではない命令に、何ら判断を行う暇もなく駆けずり回っていた。兎に角お客様がこれが要る、あれが必要と言われれば差し込み便器だろうが花茣蓙だろうが調達させられた。1年に満たない商品開発課の経験であったが、一つの商品に拘らないこと、お客様のニーズがあれば何でも売れるのだということを体で覚えることが出来た貴重な時間だった。





 


それから市川商事もこれからのコンピューター時代に対応する為コンピューターを販売する部門を作るということで、私はその部門を希望し移籍した。今でもシステムに関わった仕事をしているが、やはり時代の先を行っている感覚が持てて面白い。 とは言うものの当時は販売するものが無く、まず扱ったのがシャープのポケットコンピューターだった。当時プリンター込みで5、6万円だったか、お取引先の病院の個人の方々から親戚友人を訪ねて売って回った。



 


その後、やはり病医院用のコンピューターを扱わなければならいとなったが、いかんせんコンピューターでは何の実績もない市川商事であったので、まずはキャノン製レセコンの手数料販売から入った。それからメディカルコンピューターシステム社(現・日立メディカルコンピュータ)を扱い、後半は富士通のHOPE80というレセコンを販売した。これはそこそこ実績が出て、当時大きなシェアを占めていたSANYOメディコムに十分以上に対抗出来たということで富士通の社内では評判だったそうだ。



 


平成9年、突然佐賀営業所へ初めての転勤を命じられた。本社、長崎支店勤務が長く、また当時は人が少なく今ほど人事異動が多くはなかったのでびっくりした。佐賀は仕事で数回行った程度で親戚も友人もおらず多少の不安はあったが、いざ転勤をしてみると不安よりも新鮮味を感じることが多く良かった。転勤の経験が無く嫌がる向きもいるようだが、これは自分にとって為になることなので是非体験して欲しいと思う。

長崎と佐賀という隣の県ではあるが仕事の事情は大違いで、長崎では普通に売っていた商品を仕入れることが出来ない。「今のところアイティーアイさんにお願いするような商品はありません。」と云ったあるメーカーの言葉は今でも忘れない。また、人数も少なく何でもやらなければならないので所員から教えて貰った。知らないことは教えて貰い、私が知っていることは皆に伝え相乗効果が徐々に表れ売り上げも少しずつ伸びていった。




3年8ヶ月の佐賀営業所生活を終え、今度は宮崎への転勤となった。これまた佐賀とは180度異なる地域で、気候も違うが仕事内容も全く違っていた。主流のメーカーと取引が出来、同様商品のメーカーさんとの切り分けに苦労するという逆の悩みがあった。宮崎の皆は本来の医療機械屋でお客さんも掴んでおり売り上げの心配はなかったので、私は管理に重点を置いた。この宮崎も同じく3年8ヶ月を経て本社に戻ることになった。 それから本社に3年、福岡営業本部に3年4ケ月を経て今は長崎に戻っている、

冒頭筆が進まないと書いたが、いざ書き出すと色々な思い出が浮かんできて長くなってしまった。


 


ひとつちょうど30歳の時にアメリカに行かせて頂いたので、その時の感想を書きます。ラスベガスで行われた世界最大のコンピュータショー「COMDEX」に参加し、その日本では想像できない規模の大きさに驚き、その同じツアーの中で訪問したMicrosoft社の斬新さに感動したことを覚えています。




 


最後に、会社員生活も33年となりいろいろな事を考えるようになる。それは親や妻、子供のこと、友人の事。この「ISM」を書いている今はお盆であるが、昔の友人に会うと誰それが死んだ等という悲しい話も聞くようになった。色々な事を教えて頂いた鬼軍曹竹尾さんも昨年亡くなられた。亡くなられた方々だけではないが多くの人達に囲まれ、多くの人達に教えられながら今まで生きてきたのだなと改めて考えさせられる。これからも又多くの人達にお世話になることであろうし、私も出来るだけ多くの人に何らかの貢献をしていきたいと思う。

                                              アイティーアイ株式会社


                                              物流管理部  田崎 潤一


「君は、人と比べて『これは優れている』というものは何かありますか?」

「色んなものでは負けると思いますが、自分の中で『これは』というものに対しては絶対に負けません・・・」

入社試験の面接で、今は亡き『T次長』があの鋭い眼光で質問された時のやり取りである。いくつかの質問の後、その場で当時の市川社長より「君は合格だ。おめでとう!」という言葉を頂き、市川商事社員としてのスタートを切ることとなった。何だかとてもうれしかったこと。とんでもないことをしてしまったのではないかと思ったこと。絶対に「立派な社会人になる」と心に決めたこと。 学生だった自分にとって、「仕事の意味合い」をまだ理解しないままの社会人突入となった。


早いもので、昭和57年4月に入社し30年。入社から3ヶ月後の7月に、約300名の犠牲者を出した「長崎大水害」を経験し、その2ヵ月後の昭和57年9月には「熊本営業所」に転勤を命ぜられ、そこで8年。当時は営業3名、事務1名の小さな所帯であった。また当時の事務所は少し離れたところに『倉庫』があり、その当時、与えられた営業車に「エアコン」は付いてなかった。長距離の移動が多かった私に、今となればこれが一番辛かった。

平成2年7月には、八代営業所の開設を任せて頂き、当時新人社員と2人きりの事務所も経験させて頂いた。『事務』のいない時期が、大変だった反面色んな事を教えてくれた。  開設当初の八代営業所の事務所は『貸事務所』で1階が「店舗」2階が「住居」といったところであったが、1階の事務所兼倉庫には、近くの川の影響か「かに」がよく遊びに来た。 置いてある商品の間を「縦横無尽」に逃げ回る姿も、今となっては懐かしいものである。

その後、熊本、八代を行き来し合計熊本県には「28年」という長い間お世話になることとなった。気付けば、長崎出身の自分が、長崎で過ごした時間以上に熊本で過ごすこととなった。

そんな『30年』、いろんな事がありましたが、自分なりの記憶をたどって遡って見たいと思います。


 


《仕事を作る》

入社当時、先輩方の仕事を手伝いつつ、やがて一人で営業に出るようになった。営業と言っても、既存の施設への「ルートセールス」もしくは、新規施設への「飛び込み」である。当時、数少ない既存の施設は、暖かく迎え入れてくれる施設が多く、新人の私には訪問が楽しかった。ある時は「お茶」など頂き、くだらない話などさせて頂く事もあり、その時間が「これが仕事だろう」という悪魔の自分と、「こんなことやってても、金にはならない・・・お前の仕事は、金を稼ぐことだろう」という天使の自分が、常に争っていた時期でもあった。

天使の自分が勝った時に訪れるのが、新規施設への「飛び込み」である。「開拓」することで「裾野」を広げなければ、売上が増えることは無い。「わかっていて、なぜやらない・・・」この声は当時、どこから聞こえたのだろう?


しかし、残念ながら「市川商事」という名前をご存知の施設も少なく「何やさん?」「どんなもの売ってるの?」「へー」で終わってしまう会話の中、「次への一手」のくさびを打ち込むことが自分にとっては、非常に難しかった。

「いや、もういいよ」「うちは必要ない」といった「結論」を出されると、そこへはもう行けなくなる。会社のネームバリューだけではなく、肝心な「商品」も少なかったのである。じゃ、その結論を言わせないようにすれば次も訪問できる・・・やがて、その施設へどう展開するか?

何より「望まれない存在」をいかに「望まれる存在」にするか・・・果てしなく遠いゴールを恨めしく思うときであった。


「何もしなければ、何のトラブルも無い。しかし、得るものも何も無い」


 


《招かざる業者》

運よく「望まれる存在」までは難しくとも「気になる存在」になれれば、とりあえず「訪問の権利」は勝ち取ることができる。しかし今度はこの時期、「話をつなげる難しさ」で頭を悩ませて始めていた。自分のことを話しても「興味がない」ことがあからさまにわかれば次は相手の事を聞く。「なぜ自分のことを」と今度は凄まれる・・・なかなかうまく行かない・・・。じゃ、どうすれば・・・。何度も繰り返すうちに、やがて相手の興味に「探り」を入れることを覚え、行き着くところは「趣味」の話が一番であるということにたどり着いた。 しかし、やっとの思いで、「楽しい話」を見つけたのも束の間、今度は新たな問題が発生。

「楽しい話」で何とか話をつなぐ方法は見つけたものの、「楽しい」で終わってはこれまた金にはならない。やがて、95%の「楽しい話」の終わりに僅かながらの「仕事の話」を加えることを覚える。「先生、最近こういうのが出たんですけど・・・・」 せっかくの楽しい話題を止められ、最初はけげんそうな顔をしていたDrもやがて「話題」がそちらに移ったことに気付く。「あっ、そうか・・・こいつはものを売りに来てたんだ・・・」

Drとしても今までの付き合いの中、「営業の自分」の存在が受け入れられるかどうか・・・ここで大きな岐路に立つ。 うまく行っても行かなくても、「楽しい話」は、比率はどうあれ次回からも「混ぜる」。例え、そこでうまく行かなくても、「次のチャンス」を見計らってアクションに移る。

逆に運よく「小さな商品」の採用が実現すれば、その結果が大きな第一歩となる瞬間がこの時期には控えている。 最初の「小さな受注」には、自分なりに「決まり事」があった。 今までに見せたことの無いくらい『喜びを表す』ことである。

それを見たDrが戸惑う・・・「え、そんなに嬉しいの?」・・・「そんなに嬉しいのなら・・・」と気付いたら、そのDrが「味方」に変わった瞬間でもあった。 それ以降の商品の採用があれば、「よかったね!」と一緒に喜んで頂ける「味方」となる。僅かながらの「仲間意識」が生まれ、「長かった孤独」から開放される瞬間でもある。 自分は「受注」より、この「一体感」の方が、実は一番嬉しかった。


自分の担当商品は「透析」であった。

ダイアライザーから始まり、やがて装置へ・・・最終章は、Dr自らの「開業」であった。 自分の中でも、受注のランクがあり「勤務医」であるDrが勤務先の消耗品或いは装置を選ぶに当たっても、大きな「リスク」はない。 しかし、開業となると話は別である。自ら選んだ結果が、全て自分に降りかかる。つまり、「人生」をかけた勝負に、一番考えた末の「選択」に自分が入れるか・・・「開業こそ一番大きな受注」と自分の中で、考えていた。

「もともとそのお客様に必要な業者はいない。必要な要件が発生しただけのことである」


 【増築前の事務所】


《記録より記憶》

お客様への訪問が順調になり、ある程度のベースが出来始めると、また別の目標が出来始める。

       「開業の時の苦労話で、何年酒が呑めるか?」

である。開業時の評価こそが、その後、その先生との関係を維持するための一番大切なものとなる。

多少の問題があっても、開業時の苦労を思い出して頂き「あん時、がんばってくれたもんな~」といった思いが、「じゃ、今回はその時に免じて・・・」と「最後の一線」を踏みとどまる大きな「理由」になる。

自分の仕事に対する「Dr」の評価は何が一番だろう?値段?対応?・・・そんな中、自分の中で「開業時の思い出で、何年呑めるか?」と考えた。 5年で忘れるか?20年経っても「あんときゃ・・・」と言って頂けるか・・・。 私なりの「こだわり」でもある。


数年前、八代市内のある開業のお手伝いをさせて頂いた先生の開院10周年パーティーに呼ばれることがあった。最初の院長の挨拶で、開院当初の思い出話が始まり、「そういえば・・」と少々懐かしんでいたところ、最後に「開業前夜、準備を全て終え、家内と田崎さんと飲んだ缶ビールの味は一生忘れません。」と締めくくられた。 とてもびっくりした。なぜかというと自分の記憶から「完全に」消えていたからである。 情けない・・・と思いつつも、忘れていた当時の自分を語る先生の話で「客観的」に自分を感じることができたが、何だか妙に照れくさかった。 しかし、Drの心の中に私の居場所を作ることが出来たことは、間違いの無い事実でもあった。

「記録は残りやすい。しかし、記憶は一度鮮明に残れば、なかなか消えにくい」


《たかが「黒子」、されど「黒子」》

八代に事務所を出して間がない頃、近くの小さな病院の院長の息子さんが帰ってきた。前にいた施設でやっていたということで「透析」の装置の話があった。緊急透析用にと、個人用一台を購入頂いた所からお付き合いが始まった。以前おられた県立病院救命救急センター時代の「血が騒ぐ」のであろう、救急患者が入る度に呼び出しを受けた。

弊社のことを、大事にしては頂いていたのであるが、呼ばれるのがいつも「夜中」。しかも、今から「吸着のカラムを使いたい。」「IABPはどれくらいで準備できるか?」といったいわゆる無理難題のオンパレードであった。以前の施設ではすぐに選べた選択肢が、この田舎町ですぐに準備することは、現実非常に難しいと気付いて頂くのに相当な時間を要した。

普通であれば、色んなリスクを伴う依頼に対し、逆にご迷惑がかかると判断し、すぐに断る自分であったが、そのDrの目線の先にはいつも「患者」があった。 そういう自分のことはそっちのけで患者さんのことばかりを考えて行動されるDrに、いつも全力でお付き合いをしていた。そんな中、自分の中でも「何だかいいことをしている」という思いが目覚め、夜中に走り回る自分が誇りにすら思えるとこもあった。 Drの口癖は「いつもすまんな」であった。


そんなある日、久しぶりに「昼間」に電話があり「ちょっと来てくれ!」ということでお邪魔した。 ICUに行くと、腕組みをして微動だにしないDrと心配そうにベッドを見入るご家族らしき女性2人。ベッドを見ると、50過ぎと思われる男性が意識を無くして横になっていた。後で聞いたが、ご家族は「奥さん」と「娘さん」 。事情をDrに聞くと「交通事故で運ばれてきた。胸を強打し、気道を「血痰」が塞いでいる。気管支鏡を使って鉗子孔から異物鉗子で取ろうとするが、細かくちぎれて取れない。酸素飽和度もどんどん下がってきているし、今のままでは、大手の病院に移し開胸手術をするしかない・・・・何か良い手はないか?」

血痰が気道を塞いでしまった患者さんの『酸素飽和度』はかなり低下し、肌の色も黒くなりつつあった。呼吸は一生懸命しているが「吸えない」状態で意識のない状態ながらも苦しそうである。早く取り除かねば・・・。 何かないか・・・・・!?偶然であったが、事務所に「ERCP《内視鏡的逆行性胆道膵管造影》用のバルーンが1本あったのを思い出した。胆管用で長さは3mと長すぎるが、太さでみれば、気管支鏡の鉗子孔は通る。血痰の向こう側でバルーンを膨らませて、引きずり出せばもしかして・・・。 Drに話すと、即座に「よし、やってみよう!」

往復10分ほど頂き、大急ぎで事務所に取りに帰った。心配そうなご家族に、今からやることの説明が始まった。「だめなら大きな施設で『開胸手術』になります。覚悟は決めておいて下さい。」震える娘さんと、うつむいたままの奥さんの姿はまともに見られなかった。


「うまく行ってほしい・・・・」それだけを願った。 気管支鏡がすぐに入り、鉗子孔からちょっと長すぎるカテーテルを進め、「血痰」の先に到達したところでバルーンを膨らませる。これで完全に気道を塞いでしまい苦しそうにされる患者さんをみて、静かに気管支鏡ごと引き抜く・・・・すると、いままで苦しめていた「塊」が出てきた・・・・・見事に成功したのである。

その後、ゴホゴホと咳き込む患者さんの顔色が見る見るうちに「ピンク色」に変わって、『酸素飽和度』の値も急激に上昇。意識はまだ無いものの何度も繰り返す、『落ち着いた深呼吸』が全ての終わりを示していた。

しばらくして落ち着き、少し離れたところで2人のご家族に何度も頭を下げられて、頭をかきながら、本当にうれしそうなDrを見て私自身も最高にうれしかった。そんな中、ちらちらとこちらを見られるDrの目は「感謝、感謝」と言わんばかりに小さく何度もうなづかれていた。

その後、いつもの口癖だった「これ、何割引?高いな。もう一声!」との交渉も「今回は、値引きはしなくていいよ。定価で納めてくれ!」と嬉しそうであった。 役者がいい仕事が出来るかどうか?地味かもしれないが『黒子』の仕事は役者の仕事を引き立たせるものである。また、そう願う。 『黒子』の目線の先には「観客」、つまり『患者』があるべきであり、『役者』が舞台の上で「観客」の満足を得られる為には『黒子』の役割は大きいのである。

「劇場とは、黒子が仕事を楽しむ場所でもある。」


 【増築後の事務所】



《捨てる『神』あれば拾う『神』あり》

透析施設を新規で開設したある基幹病院での出来事であった。 まだ『春』と呼ぶには早すぎるとある寒い朝、担当Drから呼ばれて訪問した。

「血漿交換をしてほしい。ビリルビン吸着を・・・」「肝臓がんの患者さんだけど・・・」「先生、肝臓がんは血漿交換の保険適用にはなりませんが・・・」 「いや、わかっている。いいからやってもらえますか・・・」「・・・・??」

患者さんは、見たところ40過ぎの男性。肝臓ガン末期状態特有の肌の色で、それだけではなく、眼球の『白眼』までもが「黄色一色」であった。ビリルビンの値も「えっ」という位の値であったが、最初の血漿交換を行った。しかし、血漿交換後には一気に落ちる『値』も、当然であるが、すぐに戻る・・・治療効果も望めない状況で「なぜ・・・」と疑問に思いながら、毎日立会いに行っていた。 下がっては上がり・・・その繰り返しで数日が経過した。


そんなある日、今回の理由がわかった。いつもいらっしゃる奥さんが中学生を思しき制服を着た娘さんを連れてきた。「いよいよ試験だね」「うん、がんばる」「受かるといいね・・・」


少し離れた所で「娘さんの高校受験が終わるまで持たせたい・・・。」主治医の先生が小さな声で話してくれた。 そこには「治療」ではなく僅かな「数日間の延命」が存在した。これも医療なのである。

その次の週、無事入学試験は終わり、治療も中止した。 数日後「機材を引き上げてください。」と看護師さんから連絡があり、その病室にお邪魔した。 早春の頃には珍しく、暖かい日で「ポカポカ」と気持ちのよい日であった。  すでにベッドはきれいに片付けてあり、持ち込んだ機材だけが部屋の隅に残っていた。 十日ほど、御一緒しただけの患者さんであったが、帰りの車の中で涙が止まらなかった。無念でたまらないお父さんの気持ちを考えると辛かった。


その数日後、看護師さんに「娘さん、受かったらしいよ!」とお聞きし、自分の事のように喜んだ。 複雑な心境ではあったが、これも運命か? お父さんの命と娘さんの高校合格。どちらを取るか?などといった酷な選択はありえない。

「捨てる神あれば、拾う神あり」いや「拾う神」だけにはならないものか・・・・。 いや、せめて合格した娘さんの笑顔を見るまで待ってくれなかったのか・・・。


今冷静に考えれば、それ相応の施設で対応すべき医療のお手伝いを、「勢い」だけでやっていた時代である。非常に恐ろしいことをやっていたものである。「時代」と言う一言で解決できるかと言われれば、それまでであるが「恐ろしくなかった」時代であったことは間違いない。


 


丁度入社30年、お世話になってきてひとつの区切りをつけることとした。

30年を振り返り、今自分なりに感じることは、「自分の楽しみ」を仕事に持つべきであると考える。突然、夜中や休みの日に呼ばれても、自分なりの「2つの楽しみ」を作っていたからこそ、耐えてこられた気がする。

私にとってひとつは、お客様の「感謝」の一言であった。 「ありがとう」「助かった」「また頼む」・・・こういった感謝の言葉こそ、或いは感謝の思いこそが自分の「貴重な報酬」であった。無論、その報酬が「対価」に代わり、商品受注で成り立っていたのも、紛れも無い事実であった。 逆に、一生懸命対応しても、お客様の何の反応も無くひとつの仕事が終了することもある。こういう時は、まだ満足して頂けなかったと『反省』することにしていた。自分で落ち度を探し、次回はこの部分は気をつけると課題を持つことにより、『くさる』ことなく、次への切り替えは出来た。 また、もうひとつの楽しみが「存在感」である。自分が行ったことで色んな結果が出てくる。良い事ばかりではなく、悪い結果もたくさんあった。

しかし、『自分がいて出来たこと』を見つける度に、悪い結果による苦労も忘れることが出来た。やってよかった・・・と思えることをやり遂げた充実感、存在感を感じることが、大きな楽しみであった。こちらは、どうしても自己満足の世界に入ってしまうのであるが、それはそれで『自己評価』も大事な所ではないかと思う。次への自信に大いに繋がる。

そんな楽しみを産む為に、必要なことがお客様との「貸し借りの世界」である。 「貸し借りの世界」の中、いかにお客様側の「貯金」の大切さが大きいか、仕事の中でいやというほど教えていただいた。いつ下ろせるかわからない「貯金」を地道に貯めることこそが、日頃の仕事であったし、たまに発生する、思いもよらない「大きな利息」に大きな楽しみも持っていた。 しかし、この「貯金」を作るには最低必要条件があると信じる。

「感性」と「価値観」である。つまり、お客様と同じ感性、同じ価値観を養い、お客様の主観で「喜んでいただく」ことをしないと、「貯金」は貯まらない。自分だけが「いいことをした」と自己満足では、何にもならないのである。 この「満足貯金」・・・・曲者であり、よく見ていないと勝手に減ったり、増えたりする。勝手に増えることは望ましいことであるが、「勝手に減る」となると危険信号である。

組織とは面白いもので、担当者の「満足預金の残高確認」を「管理職」が行う仕組みができており、常に「プラス」であることの確認を行う為に存在していると思う。無論、マイナスの確認が取れれば、何らかの「措置」でプラスに転換する必要がある。これこそが「管理職」の仕事と言い聞かせてきた。

「残高確認」が出来ないまま、「マイナス」の状態が長く続けば、危険水域に入ってくる。無論、一発触発の可能性が大きい。この管理職に必要な「危険予知能力」こそが、一番悩ませられた。 今がどういう状態なのか・・・・簡単そうであるが、非常に難しい問題であった。

経営理念にある「お客様の目線」こそが、「感性」であり「価値観」である。まずは、その「目線」に合わせてこそ、お客様の「満足」に辿り着く権利を得られるのである。 最後に、お客様の感謝を得る「快感」をぜひ感じてほしいと願う。また、それをずっと「後輩」に伝えて行ってほしいと、ただただ願うばかりである。 入社して、丸30年。長かったようで短かった気もする。いいことばかりではなかったことは明らかであるが、悪いことの中で自分を支えてくれた「お客様の感謝」「自分の存在感」こそが、私にとっての一番の宝物となった。

「楽しくなければ仕事ではない、しかし、それは相手も楽しいということが、最低条件である。ただそれを守れば、今度は仕事があなたを助けてくれる。」 30年前、「仕事の意味合い」が解らなかった自分が、ここまで来られたことに本当に、感謝してもしきれない。本当にありがとうございました。


 

忘れられない1日

2012-7-2 9:19

                                                    産業機械部  岡田 善史


1967年7月19日(水)、市川商事株式会社(現アイティーアイ株式会社)が産業機械関連商品の販売会社として産声をあげる。1980年4月1日(火)市川商事株式会社へ入社。会社始まって以来初の5人採用のうちの一人が私である。



                 【中央が私】


その当時の新人研修は、1週間づつ各部署の先輩と同行して学ぶものであった。私の最初の研修部署が産業機械部で、他の部署の研修も受けずにM先輩からの『岡田君、うちの部門へおいでよ』の一言で、断り切れない性格の私は現在に至る。


三菱重工業(株)長崎造船所(以下MHI)の造船部門を担当する。右も左もわからないまま配属が決まった次の日、M先輩に飽の浦町にあるMHI内に連れて行かれ『ここがMHI6ビル(長崎造船所の本部)、ここがNヤード(船を建造する所)、ここが研究所、向こうに見えるのが(はるか遠く)MHI香焼工場で、その工場内にもヤードや研究所がある』


と場所だけを運転しなが指差して


『明日から今教えた範囲内、何処に行ってもいいよ。あ~、三菱電機も帰り通るから教えるね。営業は数字やけん!』


と淡々と言われている顔を今でも覚えています。


恐る恐る


『どんな物、何を売るのですか?』


と質問すると


『うん、それは事務所に帰ってから教えるから、焦らんでもいいよ』


との回答。


 


昼過ぎに事務所へ戻り、カタログが無造作に並んでいるラックの前に連れて行かれ


『岡田君の担当部署は圧力計しか売れてないので、その他はこのカタログの中から何を売ってもいいよ。ま~、この中から一つ選んで勉強しPRして売上を上げてね。期待してるよ』


と、さも当然みたいに言われたので、社会人とはそんなものかと考えた当時はまだ純粋だった私は翌日から、日本精器㈱のエアーフィルタとドライヤーのカタログを1人で読んでました。


何故そのカタログを選んだのかは不明です。(多分「精器」の響きが・・・。) 『これで本当に給料をもらえるのかな?』と不安が有りましたが・・・・・・。


しかし、一日中カタログを見続ける苦痛は・・・・(T_T)


  【入社当時の私】


 


そんな時、総務担当のやせた人(今は私の厳しくて優しい上司です)から


『手伝え!』 の一言。


ペンキ缶とシンナー、刷毛を手にして駐車場へ連れて行かれ、昼間から車の枠線を引きました。


そのやせた先輩は、風呂屋の桶で(注:言うばっかり)


『曲がっとろうが、線も引ききらんとや!』


と、私達に怒鳴っていました。


私は心の中で


『駐車場の白線とか今迄引いたこと有る人間の方が少ないだろうに。ペンキ職人かその家族ぐらいしか経験したことないだろうに。言うばっかりで・・・。』


再度、心のなかで


『社会人とは ???』 を唱えていました。(4月10日頃)


 3日間ぐらい社内でカタログを読んだり、色々と社会勉強をさせてもらい、 『日本精器のフィルタをお客様の所へPRに行っていいですか?』 と先輩に確認を取り、  いざ、出陣 !!! 以下が初めて行く、MHI香焼工場(Kヤード)内での長くて忘れられない1日です。


 


 


4月14日(月) 8時50分事務所を出る。 組立課の一番奥に位置し、こちら(入り口)を向いているAさんの所へ素早く行き


『市川商事の岡田と申します、本日は日本精器のフィルタとドライヤーの紹介で参りました、お時間宜しいでしょうか?よろしくお願いします』


と回答も得ないまま、丸暗記した内容をしゃべり続け


『どうですか?必要ですか?』 と質問すると


Aさん:『はぁ~、君は何年営業をやっているのですか?』 との質問返し。


私  :『今日Aさんが初めてです。』


Aさん:『そうやろうねぇ~、私にそんなもの説明されても買わんよ。』


すかさず


私  :『どうしてですか?』


Aさん:『ここでは使わんので必要ない。』


私  :『何処でつかうのですか?』


Aさん:『そうやねぇ~、塗装課か動力課、運転課ぐらいかな?』


私  :『その3つの課は何処に有るのですか?それとその課の誰にPRすれば良いのですか?』


Aさん:『岡田さん、いくつね?』


私  :『私は22歳です。』


Aさん:『ずうずうしかね、えらいもんに捕まった』


と言いながらも


Aさん:『塗装課 Bさん、動力課 Cさん、運転課 Dさん かな?これが構内の地図。今居るところがここで、塗装課が・・・』と丁寧に教えてくれました。(10時30分頃)


 


次に、塗装課のBさんを訪問したが不在。近くの女性に何時頃戻るかを確認すると11時45分頃とのこと。その頃また伺うことを告げて、動力課 C さんの所へ。


そこでもイキナリ


私  :『市川商事の岡田です、組立課のAさんから紹介して頂き伺いました』


とまたまた丸暗記の説明。色々と質問をされたが、1つも答えることが出来ませんでしたが、 次の事は答えました。


Cさん:『君、何時からこの商品をPRしているの?今までMHI内に納入したこと有るの?』


私  :『今日が初めてのPRでCさんが二人目ですから、MHI様にはまだ納入していません』 と答えると


Cさん:『はぁ~、そうね』  と、笑っておられました。


 


その他の質問の回答に後日来ることを丁寧に告げ、足早にその場を去り塗装課のBさんを再度訪問。丁度現場から帰ってこられたところで、主旨を告げると


Bさん:『今から昼飯なので1時に【来て】』  とのこと。


はじめての【来て】との言葉 ! “【来て】とは、可能性が有るのかな?ひょっとして・・・”とニヤニヤしながらKヤードを出る。 近くの田森商店でテンプラとおにぎりを食べ、再度Kヤードへ


 


 


12時40分、正門の門守殿と問答。12時~13時までは構内車両通行禁止とのこと。


私    :『13時に約束しているので行かないといけない。』


門守殿 :『歩いて行け。』


私    :『間に合わん。』


門守殿 :『知るか。』  横を見ると自転車が置いて有ったので


私    :『これ貸して下さい。』


門守殿 :『君、どこの会社?』


私    :『市川商事の岡田です。』


門守殿 :『ちゃんと返せよ。』


私    :『了解しました、必ず戻します』


 


自転車で塗装課Bさんのところへ行きました。12時55分着。またまたまた丸暗記のPRだったが、若干説明が自分の言葉になってたと自己満足しましたが


Bさん:『この課はいらん、この課で予算は取れん。動力課へPRしたら』


私  :『午前中に動力課へ行って、Cさんより色々な質問をもらっています。』


Bさん:『そっちが買うよ。』


私  :『何故、こちらでは買わないで動力課は買うのですか?こちらでも買って下さい。』


Bさん:『刷毛や塗装、薬品類は買うよ。コンプレッサー等の設備に関するものは動力課の範囲なんよ、常識たい!』


私  :『ありがとうございます。刷毛を今度持って来ます。』


 


最後に、運転課 Dさんのもとへ。 ここは正門から一番遠い所に位置していたので、自転車を門守様へ返しに行きランサーバンにて、当時世界一の100万トンドックを横目に目的地へ。運転課のDさんが一番表情が無く、ウンともスンとも言わないで、少し流暢になった私の説明を聞いてくれていました。30分ぐらい説明し


私  :『どうですか必要ですか?』 と問いかけると


Dさん:『要る時は要るが、今は要らん』


私  :『何時が要る時になるのですか?』


Dさん:『船が来たら要ることも有る』


私  :『船が来るのですか?造るのではないのですか?今もそこで船を造っているじゃないですか?その船に必要じゃないのですか?』


Dさん:『あの船は新船たい。新船に入れる為には設計にPRせんばね』


私  :『設計は何処に有るのですか?』


Dさん:『6ビルの5階に有るよ』


私  :『設計の誰にPRしたら良いのですか?』


Dさん:『機装設計のEさんを尋ねたら?』


私  :『ありがとうございます。ところで、船は何時来るのですか?何をしに来るのですか?』


Dさん:『岡田さん。PRに来るときは、そこが何をしてる部署かを調べてから来んばね。 ここは、新船と修繕船を運転するところで、修繕船は運転してみて悪い部品を替えるのでその時に必要になる。来週、修繕船が2船はいる。この商品が要るかどうかは判らんよ』


私  :『ハぁ~そうですか。色々教えて頂きありがとうございました。』


Dさん:『イエイエ、楽しかったよ。若いって良いね』


 


            【左:私、右:Kブロック長夫人】   

 


 


32年経過した今でも、脳の回路を巻き戻すと鮮明に記憶が蘇えって来ます。これが、私のイズムです。この時の経験が有るので今があると自負しています。(注1)動力課のCさんと運転課のDさんからは後に注文を頂きました。


  


本来は諸先輩方から、手取り足取り、また素行を直接みさせて頂いた事から学ばせてもらったことを、事細かく描写したいと思っていましたが、今、流行の暴露本調になってしまうのではないか?と自問自答しました。もう一つの私のイズムはそこにも存在している様な気がします。




                                                        ITC㈱ 画像診断部

                                                        森田 稔

1昨年、”徒然なるまま”にて、[クレイジーアメリカ一人旅]を書かせて頂き、今回、ISM投稿の御指名を頂きさて何を書こうか?正直迷ってしまいますが、諸先輩方の文言を参考にさせて頂き、今から30年近い前を振り返ってみたいと思います。



①面接
2度目のアメリカの旅から、帰り1年間をアルバイト、今で言う派遣社員等で生計を繋いできた私は、長崎職安で、多くの求人ファイルの中から、たまたま、市川商事(株)を引いた。初任給が何百何十円単位と細かく記載されていたので、まともな会社だと判断した。昭和58年4月末に会社を訪問。
市川社長(当時)に面接頂く。かなり長くお話しさせて頂き、私が何で前の会社を退職したのか?当社を選んだ理由、アメリカへ行った目的等の質問を受けた。 また、突然、”貴方の親友3人の名前と職業を言ってくれませんか?”と言う質問が、後々に理解できた。本人を知る近道は、本人に近い周囲の情報を取る事。 我々も日々営業で使っているが、これも、市川流、面接の極意であり、今も引き継がれている事である。
大筋、市川社長から採用しようと思うが、阿部専務と一度会って欲しい旨、別の日に設定したいお話しでしたが、私は、”今日、結論を出してくれませんか?”とお願いし、午後一で阿部専務、佐藤課長と面談を終え、昭和58年5月8日入社させて頂きました。来年5月で、丸30年を迎えました。



②毎日が、飛び込みセールス!
入社当時は、売上額が16億円、社員50名弱だったように記憶しています。丁度本社組織変更があった時で、私は、営業2課配属となり、 検査診断、医事コンピュータの2つ柱で構成されていた。メンバーは、佐藤課長、藤田主任、大籠主任、中村さん、荒木さん、森田でした。私は、中村さんが福 岡転勤する為、4か月か半年で引き継ぎ本社の超音波担当者となった。医療の事は全く解らず毎日が覚える事が多く不安と希望に満ちた日々の中、2課には、1 台(佐藤課長)しか車がなく毎日歩きで、1日10~12件を、雨の日は、右手に横河RT30(エコー)を持ち、左手に営業カバン、顎で傘をさし15キロ位を”飛び込みセールス”していた。まだ、市川商事の名前は殆どお客様へは浸透してなく、透析施設以外の開業医は、某社が牛耳っていた。折しも、”豊田商事の事件”の時で、”うちは、株はいらん!”と怒鳴られ追い出された事もあった。正直、前途多難の日々で した。

  【横河電機から最初に発売された超音波 《U-SonicRT100》】


③”お前は、何やってんだ!”
入社1年後に、私は、結婚しました。中村さんからの引き継ぎで、何台かは、横河のエコーは売れたのですが、自分自身の力 でまだ売れていませんでした。毎朝、朝礼後会議があり、一人、私は残され市川社長(当時)から、”お前は、何やってるんだ!”と毎日言われ続け、さすがの 天真爛漫の私も凹んだものでしたが、自分を信じ、自分から逃げなかった私は、田栗産婦人科さんで、RT2000を初受注致しました。それから段々軌道に乗 り、自分にも自信が持て、受注すると、すぐ、市川社長(当時)へ報告に行き、”良かったな、森田”と自分の事のように喜んで頂きました。後にも述べます が、これが私の原点であり、今がある!と感謝しています。



④自分、自らが創り出す仕事と成果
私は、上司から、”あれをしなさい、これをしなさい!”と言われた事はこの方一度もありません。自らが、自分で仕事を組み立て、行動し成果を挙げる!”達成した時の喜び”は、まさに、筆舌に尽くしがたいものだと思います。時代の流れもあると思いますが、これこそ、”我が社のISM”ではないでしょうか!



⑤レクレーション
最近は、社員が多くなったせいか、あまり行わなくなったような気がします。特に中堅所が企画し、上司家族が参加し楽しいひと時をすごしたものでした。
加津佐(海水浴キャンプ)長崎、佐世保営業所合同
日吉(バレーボール)
大瀬戸(キャンプ)
阿蘇(山登り) 社員旅行
    

  





⑥新入社員歓迎会
毎年、4月にセントヒル長崎にて行われた。大籠宴会部長の名司会により、先輩芸として、薬師寺さんと中村さんの掛合い芸、田島副社長,田嶋取締役の両タジ マコンビによる中国語とフランス語による語り芸、そこに本物の市川社長の中国語の絡み。実に妙味でした。最後によく、私に詩(歌)を唄わせてもらいまし た。何故か会社の写真を見ると、マイクを持って歌う姿のそれが多いようです。これも我社の伝統の一つと言えるのではないでしょうか。



⑦出島の市川ビル7階がビアガーデンに!
夏のとある夜、阿部専務(当時)の指示のもと、第三弾の女性営業ウーマン採用時、本社7階屋上にてカラオケパーティを行う。後から聞いた話だが、私が歌った”悲しい色やね”が、思案橋の飲み屋街まで聞こえていたそう!"Oh!my God”



⑧23年前(1989年)の横河メディカル代理店会議
(現GEヘルスケアジャパンの日野本社にて撮影)
懐かしい写真です。横河からは、伊豆さん、横井さん、九州の平川さん、腰山さん、我社は、当時超音波販売に15名が携わっていました。RT4600とRT50の2機種しか無かった時期で販売に苦労した時代でした。その当時携わった面々。
  


⑨GEインセンティブ、フィリピン”セブ島”研修
市川会長60歳、私40歳の年、初めて市川社長(当時)と海外研修に行かせて頂きました。セブ島入りの前夜、ホテル日航で会長に食事を御馳走になりなが ら、昔話に花を咲かせました。入社1年目に“会長からケチョン、ケチョンに言われた事”について、私はあの時、正直言って“会長を恨みました”、“今に見 てろ!と思いました”と話すと、会長から、“森田、俺があの時、激を飛ばしたから今のお前があるんだぞ!俺に感謝しなさいよ。”と言われ、私は、“は い!”と素直に答えました。また、日頃から会長は、“知識でも営業でも、メーカーより上を行きなさい”、“人間は、一生勉強だ”、また、“病院関係のお客様は勿論、メーカーの人達も大切なお客様だぞ。お世話になったメーカーの人達とのお付き合いを大切にしなさい。” と貴重なお言葉を頂いたと感謝しています。一緒に同行した、広島の共和医理器の松本社長(現)ともこの研修で出逢いました。今もお世話になってます。GE の吉田さん、宇佐美さん、本多さん、磯崎さん、小崎さん(現フィリッツプス)達多くの方々へ感謝、感謝であります。

  

  


⑩新規開業の仕事
長崎営業所時代、田島所長(当時)の下、新規開業を数十件手がけました。この時、現今村会計事務所の石田さんとの出逢いが、更に私を成長させてくれたと思います。仕事の喜びも更に広がりました。その中でも、長崎の坂本内科、佐賀肥前町の渡辺内科、唐津の吉田内科の院長先生方には、公私共々大変お世話になり、一生のお付き合いをさせて頂くつもりです。

  





⑪”森田は、メーカー的な仕事が良いのでは!”在宅、循環器に続く画像診断専任部の誕生!
当時は、我社は、超音波販売を主体にしていたが、長崎地区において少しずつシステム製品の販売も手掛けられる様になり、GE(当時:横河メディカルシステ ム)も共闘してゆく体制を固めていった。13年前の画像の売上額は、全社で10億前後だった。ある時、田島副社長より、”お前は、拠点の責任者として仕事 するより、メーカー的な仕事で全社の画像診断の取り組みをやったらどうか!”とアドバイスを頂き、ITIの皆様の協力を頂き、40期と43期は、50億を 突破する事ができました。市川会長からは、50億突破後、“森田、次は、100億だ!”と次なる目標を頂きましたが、未達成に終わっています。中川次長 に、是非共、実現して貰いたい!と思っています。




⑫営業本部(福岡)
福岡営業本部開設とともに、福岡、初めての単身赴任で した。ずっと長崎から出た事がなかった私には、非常に新鮮で新たな挑戦!と単身生活をエンジョイしました。数字は、満足できる実績をつくれませんでした が、この3年間強の福岡での教訓はムダではなかった事を、次の首都圏への進出に生かしたい。また、多くのスタッフに恵まれたと感謝しています。



⑬ITC(株)へ転勤(首都圏)
お 江戸へ出て来て、早、4か月弱が過ぎました。東京の道路事情も少しずつ慣れてきました。一方通行がやたら多く、まともに首都高を運転できるのか?不安でし たが、やってみればどうってことはない!毎日、CTメインで、”飛び込みセールス”をしています。九州では、日に10件訪問可能ですが、お江戸では、せい ぜい、6件位が限度です。5月21日は、スカイツリーOPENと金環日食が観察できる日です。地震が多いですが、必ず成果を出せるよう精進してゆきます! 最後に、私は、”私にとっての会社とは?、会社にとって私とは?”何 時も、この双方向から、考える事がサラリーマン人生の中で想う事です。自分にとって、会社はかけがえのない大切なもの、情熱をそそぐ所。そして、自分が、 会社にとって必要とされる人材なのか、存在価値があるのか?を想い実現した時こそ、豊かなサラリーマン人生が送れたと思うのでしょう!!
最後に、これまで私を支えて頂いた皆様方に深く感謝致します。そしてこれからもご指導頂きたく宜しくお願い申しあげます。

実名を挙げさせて頂いた(皆様)方々には、大変失礼かと思いましたが、また日頃から大変お世話になっています事を、この場をおかりして御礼申しあげます。

                                                 沖縄支店  高江洲 弘


今 回、ISMへのご指名を、受けましたので、謹んで、お受けし、投稿させていただきます。 年寄りが、昔のことを、話すとどうしても、苦労話になったり、自慢話になってしまいがちなのであまり気が進みませんが・・・たぶんそうなるでしょう? 私も、これまで、なかなか開設当時の出来事などを話すこともあまりなかったような気がします。 なるべく、事実のみを書いていきたいと思います。が・・・・・?。支店の歩みなどを少しはご理解頂くためにも、いい機会かもしれません。私自身のつぶやき や、私が普段考えていることも、ついでに書かせて頂きたいと思います。


私は、今年で、ITI 入社 25年目になりました。入社 は、沖縄営業所開設のためでした。昭和63年(西暦1983年)11月の事です。 会社創業(西暦1966年)から計算すると17年目になります。 あのころの会社は、売り上げ高22億円足らず、社員数も52名位の規模でした。



【まずは、自己紹介です】

高江洲 弘 (たかえす ひろむ)!  そうです。ひろしではなく、 ひろむ です。証拠に弘(弓へん)にカタカナのムが付いています。??????

昭 和27年、兵庫県生まれの沖縄育ちです。本州(母)沖縄(父)とのハーフです。私自身は、正真正銘のウチナーンチュ(沖縄人)と思っています。 今年で60歳になります。なんと!還暦です! 今年は私の生まれ年!辰年です。何とか、今年もいい年にせねば・・・・・・・・!です。


・好きな言葉    私事では、ナンクルナイサ!  仕事では、ナンクルセネバ!です。

・特技        腹筋懸垂 (足を90度にして連続懸垂50回)   空手    どこでも眠れること!

・好きな食べ物  沖縄そば(週5日位食べているかな) ・てびち(豚の足を煮込んだもの)

・趣味        釣り(沖縄の海はほんとにすばらしいーーーー!日本1です! 世界1かな?)、断食、ゴルフ、その他

・夢         世界一周旅行(日本一周は半年かけて全国回りました)


    


   【自画像】        【沖縄の海ーーーー!】  



   


 【釣り同好会の会長です!会員募集中】     【次男とポーリーとたまん(フエフキダイ)です】




    


     【イヤー大した事ないです!】            【25年前の新入社員歓迎会です】


 


    


    【大好きなソーキそばです!】          【ヒッチハイク日本一周(北海道にて)】




   


    【九州最南端(鹿児島にて)】              【てびちです!(豚足)】




            【そば好きの証明書です!】


 


 


 


【面接とお礼!】

私 は、もともと、九州に本社がある競合業者K器械という会社の沖縄営業所に13年間勤めており、某メーカ担当者の紹介で入社させて頂きました。 最初は、東京にてITCの中西社長に面会させて頂きました。中西社長のご推薦があったおかげで今日の私があります。改めて感謝申し上げます。 入社時の面接後は、長崎市出島本社近くのお寿司屋さんで、市川会長、阿部専務(当時)からお酒の洗礼を受けました。

沖縄では、飲んだ事 のない、日本酒を、次から次へとつがれて、いやというほど飲まさ・・・・(笑)・いいえ・・・・おいしいお酒をたくさん頂きました。ご馳走様でした。 幸いにもお酒は、どちらかというと弱くはない方だったので、特に醜態を見せることなく?・・・・・・・・まあ何とか合格だったようです。すいません!


生 意気ですが、私もしっかり見させていただきました。事前のうわさどおり、市川社長(当時)阿部専務(当時)とも、とても魅力ある人物に思えました。 未熟で経験不足の私では、推し量ることは出来ませんでしたが、いろいろなお話を拝聴し、会社トップであるこの方々になら、一生ついていけると確信しまし た。 前の会社では、無かったものを感じ、この時「先を見、人を大切にし、将来に夢が持てる」理想の会社だと感じました。


こ の業界は、通算37年になりますが、医学の進歩はめまぐるしく、あまりにも知らないことが多く、もっともっと、勉強をしなければ、追いついていけません。 私が、入社させていただいたのは、社名が、昭和62年に市川商事からアイティーアイ株式会社へ変更した翌年昭和63年でした。


入 社後、長崎本社にて2週間近くもの長期にわたり研修をしていただきました。もちろん出島の時の本社です。確か6階のゲストルームが宿泊先だったと思いま す。 研修時、私のために歓迎会や、時間を割いていろいろなことをご指導いただいた方、あの時は、お世話になりました。有難うございました。 長崎本社、営業所スタッフの対応にも、新しく入ってくる者に対して、受け入れの気持ちというか姿勢というか、何か暖かいものを感じておりました。


 


【営業所開設】

沖 縄営業所は、24年前の平成元年1月10日に開設させていただきました。 最初から、事務所、及び事務員まで準備万端に整えていただいたことは、非常にありがたいことでした。 開設まで、市役所・県庁・保健所・検定所・郵便局・銀行など営業所開設手続きに奔走いたしたことを覚えています。 平成元年開設の事務所は、私が1ケ月近くをかけ探しました。30件近くの不動産をあたりました。 あの当時は、インターネット が普及しておらず不動産を1件1件しらみつぶしに回り、物件を探しまくりました。


事務所の選択条件、及び開設条件として

1・県庁所在地の那覇市であること(会長からの指示)

1・メインの病院(琉球大学医学部付属病院様)に近いこと!

1・空港まで遠くないこと

1・将来的に事務所自体が拡充可能なことと、

1・駐車場が広いこと(社員の自家用車も駐車可であること)

1・家賃が高くないこと(経費節約)

1・大型トラックが横付け可能なこと

これらの条件を満たす事務所を確保のためこだわり、時間がかかりました。その結果、ついに


那覇市古島(下記写真参照)に決定しました。


 


【背景】

平 成元年、オープン当時の、社会的背景として、昨年末に消費税法が成立し、この年4月から実施予定でした。そして、昭和天皇がご病気にて長期にわたり療養さ れておりましたが、1月7日ついに崩御されました。昭和から平成に変わった歴史的瞬間でした。 社会的にお祝い事などの行事が、自粛ムードの中、沖縄営業所の開所式を実施させて頂きました。市川社長(現在は会長)、阿部専務(現在は退職されてま す)、私の3名のみの地味でちょっとさみしい開所式ではありました。しかし、私にとっては「将来に向け、夢と希望とやる気」にあふれ、熱く燃えておりました。会長がおっしゃった、【やるなら、沖縄県で、トップになれ!】この言葉が私の大きな、励みになりました。


     


    【平成元年開所式(波の上宮)】       【古島の最初の事務所です(まずは1階からスタート)】



    


     【旧事務所古島の看板です】               【会長と事務員と私です】



【今の事務所へ引越し】

古 島の旧営業所は、社員数も増加し、営業マンを採用しても、人数分の机を置くスペースもなくなり(営業マン1人が、机がなく画板を使っていた。笑)ついに、 2000年に今の港町に引っ越しました。その広大さ、それはもう、感激でした!市川会長が、即決にて現金で今の事務所を購入していただいた時はまさに、感 謝!感謝!感謝!でした!感無量です!何が何でも、期待に応える覚悟で、それからも、がむしゃらに前に進み、すべてが仕事最優先でした!ほんとに営業所全 員が、目標に向かい一生懸命でした。もちろん最終的に目指すは  沖縄県NO・ 1 です!


 


   


 【2000年に引っ越した今の事務所です!】         【その当時のスタッフです】




【スタートと人生の恩人】

沖 縄営業所は、事務員と私の二人からのそして、売り上げ 0 からのスタートでした。沖縄営業所をオープンし、現在九州の各支店営業所にて取引しているメー カーの商品などの取り扱いが当然、可能になるであろうと思っていました。しかし、すぐに自分の甘さに気付くことになりました。会社がメインで取引をしてい るメーカーほとんどが沖縄県の既存のディラーとの兼ね合いも有り、主要な病院での直接の取引が出来ない状況でした。 (日機装、カテックス、G E, メドトロ、テルモ、J&J,ボストンなど)


しかも、外科的な取引メーカーがほとんどない状況でした。前の会社とは根本的に取り扱い のメーカー及び取扱商品の違いがあることがわかりました。今ではありえないと思いますが、アイテイーアイと会社名を説明しても理解してもらえず、なかには 市川商事といえば、わかっていただけるメーカーも、ありました。が・・・・あの当時、当社は透析の販売ディラーというイメージが、メーカーから、非常に強 かったようです。まずは、新規取引メーカーへの電話でのご挨拶、開拓からはじめました。(もちろん前の会社でのメーカーの人脈を活用しながら) 阿部専務(当時)とも、福岡の多数のメーカーへのご挨拶回りをさせていただきました。阿部専務にはいろいろとにお世話になりました。仕事上いろいろご迷惑 もおかけいたしましたが、いつも寛大な措置で、許していただいたことも たくさんありました。今は退職されましたが、お疲れ様でございました。阿部相談役 も、私の【人生の恩人】の一人です。


 


【琉球大学医学部付属病院様】

最 初の事務所は、これから、攻略していかなければならないメインとなるであろう琉球大学医学部付属病院まで、車で10分位の距離でした。特に、琉球大学医学 部付属病院には思い入れがあり、いろいろな経験は、私にとって、営業の場であり、勉強の場であり、私の人生の教師でもある病院です。数多くのことを学び、 沢山の方々にお世話になりました。琉球大学医学部部付属病院は、前の会社から担当して10年以上通っていた病院でもありました。 開設当初は、特にこれといって特定のPRするものや納品、立会いもなく、修理道具を、持って医局、看護部、病棟、外来、内視鏡・放射線、リハビリ室、臨床 研究棟その他各現場を毎日こまめに回りました。前の会社にて納めた器械など、特に病棟の車椅子は点検に回りおかげで車椅子の買い替え時はもちろん病棟の看 護用品も多く注文が頂けるようにまでになりました。当時の病棟婦長様ーー大変お世話になりました。やはり、基本は、現場回りです。いかに現場から信頼を頂 くか!これが営業の大原則 だと思います。


テルモさんの直取引も結局5年くらいかかったと思います。琉大病院にて、ポンプを他メー カーからテルモさんへ切り替え時、2年間あまりは直接の取引が出きず、悔しい思いをしました。直取り後は、シリンジ・輸液ポンプは、他のメーカーより全面 的にテルモさんにて切り替えさせて頂きました。多い時は、年度末の予算にて、ポンプのみで2千万円近くの売り上げがあった記憶があります。


循 環器では、第三内科の先生に、挨拶言ったその日に消耗品の注文があり心カテ立会いなども引き続き任せて頂くようになりました。第二内科でもは、ペースメー カーの採用も頂き、私のほうで立会いからフォローまですべて任せて頂きました。放射線科では、K大学より教授が赴任され、新規採用により、今まで、診療を していなかったインターベーションの分野に入り込むことが出来ました。胆管・食道・気管ステントの取り扱いにより、同時に内視鏡分野への入り込むチャンス でもありました。そして、ターゲット社のマイクロカテーテル・及び塞栓コイルの琉大病院での採用も沖縄営業所がIVRの分野に入り込むきっかけが出来まし た。その他、新規メーカーとの取引開始のきっかけになった、琉球大学医学部付属病院も、ありがたい、重要なお客様です。


 


【感謝・絆】

すべてが、順風満帆というわけでもありませんでしたが、今まで、いろいろな出来事があり、会社にも迷惑をかけながら何とか今までこうして仕事が出来ました。多くの方たちに、支えられてこれまで仕事が出来、そして、生活が出来、活かされてきました。


会 社を創設した会長はじめ、過去会社を支えてこられた方々は、いろいろなこと(友人・家族・健康・趣味など)をすべて犠牲にし仕事最優先でこられてきたと思 います。やはり、このアイティーアイの礎を築いてこられた方々に、過去、そのご苦労・努力があったからこそ今がある。その功績に対し敬意と、感謝です。 今、思うのは、私は、たくさんの方々の、助を受け今までやってこれたことの、感謝の気持ちでいっぱいです。病院関係者・取引メーカー、会社の上司・先輩・ 同僚・社員・部下・友人・両親・妻、その他・・・・・・また、沖縄営業所を、支え育ててくれた事務、営業マン!そして、ユーザー様はいうまでもなく、メー カーも我々ディラーにとって、非常に大事な存在です。仕入れがあって始めて、販売が可能になる訳ですから。メーカーとの信頼関係の構築も重要なことだと思 います。応援して頂いたメーカーそして協力・支援してもらったメーカー担当者へも全てに感謝です。これからも、人と人との絆を大事にして・・・・・・!


 


【震災に思うこと】

昨 年の、東日本大震災の影響にていろいろな変化がおき原発の恐ろしさ、被害の大きさ、対応の難しさ、危機管理、政策のあり方、放射線、風評被害・がれき処 理、電力問題、復興予算の確保・・・・・・・問題山積です。又、改めて、日本のモラルの高さに日本人として誇りを感じ、人の命の尊さ、生命力、希望、前向 きな気持ち、人と人との絆など私なりに考えさせられました。仕事・家族・土地・住む家・お金・大事な物を無くしたことの悲惨さと同時にメディアを通じ見た り聞いたりしていると普段、自分の、贅沢さと、いかに恵まれているか気づかされる、日々でした。福岡単身赴任時、一人アパートのテレビの前で、目からあふ れ出るものを止めることが出来ませんでした。亡くなられた方に対しご冥福と、被災地及び被災された方々の、今後早期の復興・復帰を心からお祈りいたしま す。


 


【福岡単身赴任】

2 年間、福岡営業本部専任部にて、ほんとにいい体験をさせていただきました、沖縄ではまず、経験できないことをたくさん学びました、自分の未熟さ、勉強不足 の点含め、改めて痛感しました。まさに井の中の蛙状態でした。世の中には、様々な考えの人がいること、時代の変化に対応しなければならないことも教わりま した。期待に応えられなかったかも知れませんが、こういう機会をいただいた会社と、在福時、お世話になったすべての方にお礼を申し上げたいと思います。各 支店、営業所の長、スタッフの方々、ご協力、ご支援、誠に有難うございました。


 


【縁】

最近、特に感じることは、『縁』と いうことの不思議さです!37年前、私がこの業界(前の会社)に就職していなければ、現在が無いわけです。始まりは、37年前の新聞広告です。あの日の新 聞を見ていなかったら、面接に行ってなければ、あの時採用されていなければ・・・・・・・・25年前、メーカの紹介がなければ・・・考えるときりがありま せん!よく男女でも運命の出会いなどと取り出たされますが人と人との出会いというものの不思議と同時に運命みたいなものを感じます。縁、出会いがなけれ ば、今の、妻との出会いも、そしてアイティーアイへの入社もなかったわけです。ほんとに、すばらしい会社を紹介していただいた、某メーカーのAさんに感謝 です。今まで支えて頂いた方、アドバイス頂いた方、応援して下さった方、有難うございました。


 


【運】

ここまで何とか、やってこれたのも、会長がよくおっしゃる、『運』 !  私は、まさに運が良かったのかもしれません。最近になりつくづく思うことは、アイテイーアイへ入社させて頂き、今まで仕事が出来て、本当に良かったと思っております。


創 業者や、歴史を築いてきた方々の、基本的な伝統など精神的なこと、変わってほしくないもの確かにあります、それらを引き継ぐことは非常に大切だと思いま す。しかし、時代はめまぐるしく変わっています。時代に合わせ人の心や考えも変わって来てます。これからは、若い方の時代です。理解し、見守り、合わせて 行くことも重要です。これからは、若い、新しい時代です。伝統はこれからも時代に合わせ作られていくと思います。私も、古い人間ですが、まだまだ、体力と 気力はあるつもりです。(多少腰痛はありますが・・・・・・)まだまだ、時代とともに変化し、進化発展し続けなければなりません!今年、私は、60歳にな り定年を迎えます。もちろん、定年後もこの業界で経験を活かし継続して仕事をしたいと思っています。


今後、私がアイティーアイ株式 会社で(可能であれば・・・)、この業界で、何が出来るかということを再度考えて行きたいと思います。沖縄支店は、県内NO.1 そして、 アイティアー イ㈱は、日本NO.1  を目標に!社会に対しても、生きている内に私が出来る何か?役に立つこと?何らかの形で、さらに、人生の恩人に対してもご恩返し をしなければと最近真剣に考えるようになりました。これからも、元気で、仕事、遊び、人生の達人を目指してがんばります。・・今後ともよろしくお願いします。・・・・・・


最後に、このような、機会を私に与えて頂き誠に有難うございました。

〝出会いに、感謝〟

2012-3-29 10:00
アイティーアイ株式会社

ヘルスケア専任部 

                                                  部長  土橋 明


2009年2月に掲載して頂いた〝徒然なるままに〟以下の一文を書きました。


『さ て、私は、アイティーアイ株式会社(当時 市川商事株式会社)に昭和55年4月1日に入社しました。同年10月1日付で熊本転勤を命ぜられ、現在までの大 半(24年2ヶ月)を熊本を拠点として活動させて頂いております。最初に熊本に赴任した時に、当時の市川社長、阿部専務、佐藤所長とご一緒に熊本城天守閣 に登り、熊本を一望しました。社長が「これがお前が戦う市場だ」とおっしゃった事と景観を今も鮮明に憶えております。』


    


私の社会人としての活動の原点は、熊本であります。そして入社以来、当時の市川社長はじめ、私が仕えた個性豊かな上司の方々、先輩、社員のみんなとの出会いに感謝しています。

社内での出会い、出来事は、皆様が日々色んな思い、感想をお持ちの事と思います。今回は、社内の出会いを通じて仕事をさせて頂いた、私の原点とも言うべき取引先のメーカーの事、先生の事、製品の事、教訓などについて書きたいと思います。


【歩き、飛込み】

半 年間の本社での研修後、配属された熊本営業所は事務員さんを入れて4名の所帯でした。当時の営業所所在地は、熊本市北部の清水町新地です。配属後、営業車 は与えられませんでしたので、訪問先の熊本大学など先輩/上司とご一緒できないときは、起点となる熊本交通センターまでバスで行き、近隣の国立熊本、済生 会熊本(移転前の熊本市段山)、熊本大学へは歩き、市電、バスを利用して動きました。歩きが基本でした。


ある時は、熊本市民病院 近くの医院を皮切りに、電車通り沿いに水道町交差点から旧3号線を上り、途中より3号線に下って清水町新地の事務所まで、エコー(横河電気製 RT-100)の飛込み営業をしながら丸一日かけて約15km歩きました。途中、予定コースよりはずれて、一休みした藤崎宮。参道にH病院がありました。 運良く、院長先生に面談ができ、RT-100のデモを取付け、同時にPRした血圧計(コロトコフ音記録計)にも関心を示して頂き、後日、セットで受注致し ました。ところが、院長の弟(関連病院の院長:後で分かったことですが、T社とは、非常に親密)より断りの連絡が入りました。超音波に関しては弟先生が専 門で、院長は申し訳ないと仰るばかりでした。とても悔しい思いをしましたが、教訓となり、良い経験をしたと今は思っています。


 


【メーカー、商品】①

熊 本赴任後の営業の主軸は、当初、透析とカテーテルの両方をさせて頂く予定になっていたようで、日機装の研修も受けました。ところが戦略の変更?(新入社員 の私には分かりようもありません。指示に素直?に従うのみです)により、循環器系、放射線系のカテーテルを中心とする営業をすることになりました。屋台骨 の透析以外の柱を作るためのことだったのです。


熊本赴任前の本社研修中に、仕入先の株式会社カテックス(現:ガデリウス・メディ カル株式会社)に1週間研修に行きました。心臓カテーテル検査で使用する製品、手技、医学的周辺知識、同行セールスなど大変勉強になりました。取引先の社 員研修ではなく、株式会社カテックスの社員同様の扱いで、暖かく、厳しく教えて頂きました。商品が売れると共に喜び、次への活力になったものです。カテッ クスの商品も色々ありますが、何故か愛着がある製品があります。アルゴンスプリングガイドワイヤー 規格395282 この注文が入ると、とても嬉しかったのを憶えています。


   


生 まれてはじめての海外旅行が、1985年11月カテックスツアーとなる米国研修旅行でした。添付の写真は、訪問先のユタ大学で撮ったものです。フィラデル フィアの病院では、英語もろくすっぽ話せない数名だけ、オペ室に放り込まれ心臓手術の見学もしましたが貴重な経験と、帰国したら『よーし、英語勉強する ぞ』とその時は思ったものです。


カテックス製品の営業活動を通じて実績が出た施設、先生方が、その後の私の循環器分野での基盤になったのは間違いありません。この出会いに感謝です。


 


【メーカー、商品】②

1983 年 日本メドトロニック株式会社の心臓ペースメーカーを当社が取扱うにあたり、私と福岡営業所の社員2名で、日本メドトロニック株式会社大阪支店に4週間 の長期研修に参加致しました。ペースメーカーを取扱う条件が、心電図が判読できること、製品の詳細を熟知、関連機器を操作してオペのサポートができること でした。


研修では、正にメーカー社員同レベルまで徹底的に鍛えられました。この研修により自信を持って現場にでることができましたが、第一号機を受注し、単独でオペのサポートしたときの緊張で喉がカラカラになったことを今も憶えています。


その後の私の営業活動と広がりは、このメーカー、製品との出会いが、とても大きかったです。新たなものを手がけるにも、メーカーには負けない知識をこころがけて活動してきたように思います。



写真:大きい順に1950年代~ほぼ現在のペースメーカの比較


 


【S先生との出会い】

話 は前後しますが、S先生とはカテックス製品を通じて大変お世話になっていました。 当社が、心臓ペースメーカーをはじめて取扱うことになって研修を受けるにあたり、S先生に心電図を教えて欲しいと頼みました。先生は『あ~いいよ』と夕 方、オペ室にあったナース向けの心電図の本を『ちょっと、これ借りるね』そして、そのままタクシーに同乗し、先生行きつけの〝ちゃんこ鍋屋〟でお酒を飲み 交わしながら心電図の基本的な読み方を酔っ払いながら教えて頂きました。しかも先生のおごりでした。


その後、私は、同様の心電図の 本を一冊読んで研修に臨み、1ヵ月間の研修を終えて熊本に戻りS先生に報告に行きました。ちょうど医学生3名が循環器内科の研修中で、S先生は、何と私に 心電図の基本的な読み方を説明しろと仰るのです。とても緊張して、説明したことを良く憶えています。そして、この日を境に、S先生はこれまで使用されてい たF社のペースメーカーから全面的にメドトロニック製品に切替て頂きました。S先生には足を向けては寝れません。一言では言えない感謝の気持ちで一杯で す。


 


 写真は、S先生の患者様に、ペースメーカー植え込み後退院前の動作チェック時、撮って頂いたものです。


ペー スメーカーといえば、こんなエピソードがあります。二番目の子どもが生まれる直前に、左顔面麻痺となり、当時の国立熊本病院耳鼻科に45日も入院しまし た。循環器内科では、色々とお世話になっていたのですが、ペースメーカーの症例がこのときばかりは多く、毎週のように入っていました。当時、研修医を終え たばかりのM先生が、部長のR先生の指示で、私が入院している5階病棟に、明日ペースメーカーがあるので宜しくと伝えに来られます。私は、顔面麻痺以外は 問題ありませんでしたので、心臓カテーテル検査室で、パジャマ姿でペースメーカー植え込みの手伝いをしていました。


このときの研修医を終えたばかりのM先生が、まさか将来、N大学の教授に就任されるとは夢にも思いませんでした。M先生以外にも、若い頃お世話になった先生方が、全国で教授となりご活躍されておられることは驚きでもあります。


私の原点となる特に印象深い出会い、製品などについて書きましたが、他にも多大なるお世話になっている方々が沢山おられます。本当にありがとうございます。 これからも皆さんに助けられながら、そして、感謝を忘れず、良き仕事をしていきたいと切に願っています。


以上

今回、ISMの第2弾を掲載する運びとなりました。

前回は弊社の役員が投稿しましたが、今回は部長クラスの社員が投稿いたします。

月1の頻度で更新いたしますので、ぜひご一読ください。

 

                                           アイティーアイ株式会社

                                           執行役員

                                           北部九州ブロック営業統括部長

                                           高岩 一洋

1985年アイティーシー株式会社東京営業所の所員として、勤務がスタートしました。不安と期待の中、素晴らしい方々との出会いと多くの経験が今の私の土台となっています。アイティーアイ株式会社に転勤するまでの9年間について振り返りたいと思います。

【仕事について】
入社当初は、㈱クラレの埼玉地区総代理店として、埼玉県を中心に営業活動を行いました。約2週間の㈱クラレ大阪本社研修、高槻寮と梅田の往復でした。この 研修で私の人生が大きく変わったと思います。当時最先端であった機能商品(血漿交換、吸着式血液浄化器、腹水濃縮濾過再靜注法)は、どこでも取り扱ってお らず、これから普及していく商品でした。


その後、大宮赤十字病院での研修で、透析開始から終了まで勉強させていただきました。その当時は大和田先生、倉根先生、現在、埼玉県の臨床工学技士の鎗田 さんに大変お世話になりました。埼玉県全域をカバーするために一週間の予定を決め、徹底的にアポイントと飛び込み営業を行いました。京浜東北線を中心に川 口、蕨、浦和、大宮、次の日は草加、越谷、春日部、幸手、次の日は志木、新座、上福岡、川越、次の日は毛呂を中心とした埼玉医大、深谷、児玉、熊谷、東松 山、最終日は三郷方面、一週間があっという間に過ぎていきました。


2年後、現在、沖縄の岩永君が入社し2名体制での営業活動が始まりました。素晴らしい実績、N-350年間200本、PH-350年間290本、腹水処理 セット年間200セット、DHP年間150本、という素晴らしい実績を残したものの、市場の大きさを感じていました。岩永君の活躍ありがとうございまし た。

【営業の基本を学ぶ】
商品知識の収集、文献の提出、サンプルとその結果の確認、キーマンの確認、事務への報告といった営業の基本が身についたのは、中西社長との同行や埼玉医大 の各病棟をジェルコ(ジョンソン・エンド・ジョンソン:静脈留置針)のPR活動でまわったことが大きかったと思います。



【社内での行動】
朝は、必ず一番に出社する。ライバルとの戦い。Nさんが6時に出社すれば私は5時半出社、するとNさんは5時に出社、私は更に4時半出社、Nさん3時半出 社、最終的には会社に泊まることとなりました。仕事面でもNさんが1000万売り上げると私は1200万、Nさんが1500万売り上げると私は1600 万、毎日お互いの数字を確認していました。兎に角一番でないと気がすまない二人でした。お酒の方も同じで、常に一気飲みをしてお互いに後悔することが多 かった記憶があります。神田駅で駅員さんからマイクを借りて演歌を歌い怒られました。
新美部長と私は、入社当時流行のパンチパーマでお互いの髪の毛の巻き方で競っていたように記憶しております。何度も新美部長の喧嘩を止めに入り最終的には 私が喧嘩をしていました。懐かしいです。スナックで仕事の話で熱くなり大理石のテーブルを割ってしまい大変ご迷惑をお掛けしました。田島副社長が課長の頃 でした。なぜか米満支店長(当時、佐世保営業所)も同席されており翌朝謝罪に行っていただきました。未だに、飲み会のときに出てくる話題の一つです。



【勝負のとき】
1991年4月15日こんな私に、埼玉営業所所長の辞令が出ました。現在の取締役員の方々によく言われますが一か八かの勝負を掛けたとの事でした。私自身 は、驚きと不安のなか何とか成功させるために必死に頑張りました。重要な役割を与えられることにより、成長できることを学びました。勝負を掛けていただい た会社に感謝します。かわいい新入社員である現在、久留米支店支店長の呉羽君が入社し、更に売り上げがUPしました。ありがとうございました。

【妻との出会い】
㈱クラレの商品拡販により、運命の出会いがありました。当時、カタログと装置の手配で㈱クラレの飯田橋事務所へ通うことが多く(必要が無いのに通ったこと もあります)妻の誕生日を確認し銀座で初デートを行い、結婚することとなりました。仕事以上に燃えていた時期でした。お蔭様で、結婚生活25年を迎えるこ とが出来ました。中西社長はじめ新美さんのご協力に感謝しております。

【アイティーシーで学んだこと】
一つ目は、メーカーとしての動き・考え方です。私が、栃木県と茨城県を担当していた頃、自社商品であるCVC,ポラメディコ、ベルスコープといった特徴の ある商品を、拡販、PRするために、勉強会(ディーラー選択、効率よく拡販する方法など)企画しました。この時の経験は今も活かされています。二つ目は、 人間関係の大切さです。メーカーやお客様、社内外関係なくお互いのことを思いやる心は、必要です。特にアイティーシー社内では、仕事や家族のことなど何で も相談できる環境で、家族以上の関係が出来ていたように思えます。この人に対する細かな気遣いは、お客様にも伝わったような気がします。
社員旅行は、箱根、伊豆、鬼怒川、那須高原、伊香保と皆で楽しく行いました。白石君や大塚君が新入社員の頃は、先輩への気配りが大変だったと思います。今 では、懐かしい思い出です。やはりアイティーシーのすばらしさは、全員のことを考える思いやりと愛だと思います。「自由にしなさい」中西社長の一言で、自 分で考える力をつける難しさを知り、とても悩んだことを思い出します。
月に一度は、市川会長(当時市川社長)との食事会で叱られながらもっともっと頑張れと励ましのお言葉を頂きパワーを頂いていたことも思い出されます。特に 先見性のある機能商品に対するアドバイスは、更なる拡販に繋がることが出来ました。(先見性)今の自分があるのは、これまで指導していただいた皆さんのお 陰だと確信しております。感謝しております。9年間の短い間でしたがすばらしい経験を積むことができました。ありがとうございました。

平成6年1月1日付けで、アイティーアイ株式会社 長崎営業所 営業1課係長の辞令が出ました。また長崎での珍プレー好プレーについては、次回のお楽しみにさせてください。
アイティーアイ株式会社

                                              取締役副社長  田島 知己

 

 

私はこの二、三年「アイティーアイイズム」とは・・・という話を社員の人達に話してきました。言い換えれば「企業の風土」とでも言っていいと思うのですが・・・、そしてこの「・・・イズム」というものの継承がその組織の成長にとって不可欠であるという事を 最近特に意識し出したのです。逆の言い方をすれば組織の拡大とともにその組織の持っている「歴史」や「風土」というものを維持することが難しくなるという 事です。もちろん組織の発展には過去の「成功体験」の縛りから絶えず脱け出す意識も必要なのですが「いい伝統」はいろいろな方法で先輩が後輩に伝えるべき ものだと感じていたのです。
それで昨年のある時会長に、当社のホームページに是非会社の創業に至るまでの考え方や草創期の頃の思いを書いてくれませんかとお願いしました。二、三日後 会長から自分も書くけど役員もリレー形式で書いてはどうかという話があり、「イズム」というタイトルでスタートする事になったのです。しかし自分が言い出 しっぺのくせに、いざ書くとなるとあれもこれもと迷ったり、単に思い出話ではない、自慢話でもない・・・、いろいろ悩んだ末、今日に至ってしまいまし た・・・(言い訳になり申し訳ありません!!)
結局考えた末、平凡に私の入社の話からスタートすることにしました・・・。



縁は異なもの味なもの!?
市川商事との出会い・・・それは裏玄関から入ろうとしたのが始まりでした!?
昭和五十一年春面接を受けに来たのですが私は間違って本社の裏玄関から入ろうとしたのです・・・。逆に言うと裏も表も分からないくらいの本社の佇まいでありました。昨年定年退職された村上さんが慌てて「ここは裏ですから玄関に回って下さい!」と制止されたのを鮮明に記憶しています。会長の自宅と私の実家は近所で両親が会長の奥様と知り合いだったのが縁でこの会社を受験したのでした。

今でこそ入社試験の面接で面接官として偉そうに「この会社のどういうところに魅力を感じますか?」とか「何故この会社を受けようと思われましたか?」などと質問していますが、私はただただ長崎の会社に入る事だけを一 念としていて内容も規模も全く考えず受験した者なのであります。その時面接で私は大胆にも、長崎が生まれ故郷で好きなので長崎で働きたいこと(家庭の事情 もありましたが)、将来は自分で商売をする為独立したい旨を当時の市川社長と阿部常務に話しました。その時の会長の回答は、「他の場所を知らずして長崎の 良さが分かるはずはない。他を経験してこそ長崎の良さが分かるというもんだ!」と一蹴され、さらに「君は企業内起業家という言葉を知っているかい?ウチは 商社だからどんな商売でもやりたければやればいい・・・、但し儲からんといけないけどね・・・。この会社には制限はない、好きなことをしていいよ。この会 社でいろんな事を勉強して、それでも独立したかったら独立すればいい。」という話をされました。私にとっては新鮮な驚きの話でした。加えてその時東京に進 出する事、海外と直接取引をする事を語られたのでした。 しかし、表と裏の玄関を間違った私には遠い遠い夢の話に聞こえたのも事実でした・・・当時社員数は全部で十八名だったのです・・・!?


君は汗を流すしかない!!
すぐに採用通知をもらったのですが、その規模と表、裏を間違うほどの本社の佇まいに回答を秋まで保留しても らいました。(本当に今は申し訳ないと思っていますが・・・)悩んだ挙句、エイヤイの心境!?で入社をしたのです。五十二年春、牟田常務と二人で大きな希 望に胸を膨らませ入社しました。しかし夢をもって入社したものの来る日も来る日もトラックに満載したダイアライザーを積んでお客様に配送する毎日。現場は それなりに楽しいもののホワイトカラー的会社員をイメージしていたギャップによる壁にまずぶつかったのでありました。
ある日担当していた佐世保市立病院の透析室のF先生が医局で私に突然
「田島君は頭がいいかい?」という質問をしてきました。
「・・・イイエ どちらかというと悪いです。」
「君はコーヒーをおいしく立てられるかい?」
「・・・?イイエ できません。」
「君はゴルフはうまいかい?」
「・・・した事もありません。」

【左から 田嶋取締役、佐藤監査役、私、牟田常務】

 

しばらくそんな禅門答のようなやり取りがあった後先生は、
「そうか、だったら田島君はこれから仕事をしていく上でしっかり汗を流してやっていくしかないね、お客様の要望にいかに素早く応える事ができるかを考える事だね!!」
と言って前述の禅門答の中味を説明してくれました。
「人より抜きんでた頭があれば、それは武器になる。コーヒーがうまく立てられるかという話はこの病院の内科医局に毎日三百六十五日朝早く来て、コーヒーを 作ってくれるプロパーさんがいてその人は極端に言うとそれだけで仕事になっている。ゴルフもシングルプレーヤーだと先生方にゴルフを教える事で仕事ができ ている。何か人にないものを持っているとそれだけで商売になるけど田島君は何もないとしたら額に汗してしっかり仕事をするしかないということだよ・・・。」
私は周りのいろんな方から感化を受け、その都度壁を越えてきたように思います。このF先生は既に亡くなられたのですがそれ以後私の人生にとって大きな影響を与えてくれました。



先輩は愛情をもって大いに叱れ!
入社して二年目の秋から佐世保駐在所を開設する事となり私は佐世保に転勤することになり ます。その時の上司が泣く子も黙ると恐れられていたT課長でした。その頃の課長という職は社長(市川会長)常務(阿部相談役)の次の位で我々からすると雲 の上の人でした。私はT課長から色々なものを叩き込まれることになります。
その後新規開業等の仕事を数多くやってきましたが、図面も描けなかった私を一から指導して頂いたのはT課長でした。極端に言うと箸の上げ下げから指導され たのでした。ある時平戸のK病院の増改築の最終打合せで一番大きな仕事になるICUの提案をする為夜七時頃佐世保を出発しました。毎回院長の夜の回診が終 わる八時頃から打合せをするのです。その時は交渉が長引き結局十時頃ICU物件の注文を貰い大喜びで帰ったのです。

事務所兼住まいであった事務所に戻りT課長が今日は祝盃だから外で大いに飲もうと珍しくはしゃいでおられましたが、 私はどうも熱っぽく体調が優れません。体温計で測ると何と三十八度何分もあります。T課長は慌てて布団を敷いて寝るように言われ「枕元で一人祝盃を上げる からゆっくり寝ろ・・・俺は勝手に帰るから。明日は仕事はいいから寝とけよ。」と言われ、裏の発電所の桜の花を見ながら一人美味しそうにお酒を飲まれてい ました・・・。知らず知らずのうちに私は寝ており気づいたら朝六時過ぎでした。T課長は既に居られなかったのですが、額に置かれたタオルはまだ冷たく、多 分一晩中看病してくれたみたいでした。置手紙を読みながら人知れず泣いてしまいました。
会長がいつも「自分はとても運のいい人間です。運は大事です。そして私はいい社員、いいお客様、いいメーカーさんに恵まれました。」という話をされます。私もとても運のいい人間でそして「いい会社、いい上司、いい部下、いいお客様」に恵まれてここまで来ような気がします。



再び上司の優しさについて語る
一人での佐世保の仕事は小さいながら、営業から管理業務(伝票書き、台帳付け、棚卸し)等々何でもやらなければなりませ ん。朝起きて着替えたらダイニングにあった事務所(机と椅子が二対置いてあるのみ)に出勤!?となるわけですが一人でも元気よく朝礼をしていました。注文 が多いと当然納品に追われ事務処理も増えるのは自明の理なのですが、毎月月末になると事務処理が溜まって悲鳴を上げていました。月末には当月の売上、粗利 と棚卸しの結果を本社に報告しなければいけないのですが、毎月佐世保だけが遅れて、本社から矢のような督促が来ていました。(その役割が内田専務だったん ですが・・・よくケンカしました。・・・当然処理をしていない私が悪いのですが。)そんな事が続いていた冬のある月末に阿部専務が来られました。お客様の 接待を二人でしてその夜は是非事務所兼住まいのアパートに一緒に寝て下さいとお願いしたのですが、事務所に戻ると専務が
「今月の月末処理はどれくらい溜まっているのか?」と突然の質問・・・。
専務は社長からの指令を受けて毎月事務処理が遅れがちな私の指導に来られたのが真の目的だったわけです。

【阿部専務(左から2人目)と私(右端)】

 

「・・・。」 返す言葉もなく黙っていると、
「俺も手伝うから今日中に片付けよう。」
と、夜の十一時頃から二人で黙々と処理をしました。さすがに夜中の二時を過ぎると専務がウトウト。私は専務に先に寝ていただき、結局朝まで仕事をし続けました。自分の不甲斐無さと上司の優しさに又ポロリ・・・。しかしこの時の事務処理は本当に後で役立ちました。先輩の時代からその頃までは事務所兼住まいでの生活が当たり前だったのです。これも今では懐かしい思い出です。


営業の原点はダイアライザーを変える事ができなかった事から・・・!?
入社一年目の秋、会社の主力商品であるダイアライザーの取り扱いで大きな方針転換がありました。主力メーカーのN社がこれ までの輸入商品から自社国産製品に切り換えるというのです。当然我社もこれまでの商品を全てN社の国産製品に切り換えろという指示が現場に出されました。 しかし性能が悪くトラブルも多い、しかも値段も安くないという最悪な商品を切り換えるのは大変でした。しかも上からの指示は一ヶ月内に切り換えろとの指示 があったものの、私の担当施設でどうしても二施設切り換えられませんでした。そんな折年始の挨拶回りを社長、専務とそのメーカーさんと回る事になり、切り 換えができていなかった伊万里のN病院に行く事になりました。しかし時間はもう夜の七時を回っており病院には担当のS先生も居られません。病院の敷地内の 先生の自宅まで押しかけました。

「こんな時間に市川さんどうしたの?」
「いや先生、年始の御挨拶でお伺いしたんですよ・・・。」
「いやこれはわざわざ自宅まで来てもらってスマナイネ。」
「とんでもありません。先生、今年も宜しくお願いします・・・ところで先生、N社の新しいダイアライザーの件ですが、是非使ってくれませんか?」
「・・・ああいいよ。来週一ダース持ってきなさい、使うから・・・」!?
今まで頑なに拒否され続けられていたS先生が一も二もなくOKをされたのです。それもサンプルの提出もなく使われるという事!
私はハンマーで頭を殴られたようなショックを受けました。その夜長崎に戻ってメーカーの担当者と飲みました。その時その話をするとその担当者が、
「田島君そりゃそんなに言うのは十年早いよ!!社長とお客様との長い信頼関係があったればこその結果であって君に一朝一夕にできることではないよ!!」
今この時の悔しさが私の営業の原点になっています。いつか社長を抜きたいと思いながらここまでやってきました・・・。結局抜く事ができずに今日に至っているわけですが・・・。



知識がなくても物は売れる
佐世保時代、会社が横河電機(現GE社)の超音波診断装置を売る事になり(この経緯は話せば長くなるので機会があれば直接 会長から聞いて下さい。)、「全員で売れ」ってことになりました。その頃は殆どが透析市場での仕事が主で、少しずつ中材・オペ室・循環器の市場に商売を広 げて行っていた時代で全く超音波診断装置なんて触ったこともない機械でした。しかし片っ端から内科、産婦人科の開業を中心に飛び込みをかけたのでした。
「先生、技術の横河電機が超音波診断装置を開発しました・・・、技術の横河電機ですから何がいいかと言いますと兎にも角にも画像がいいんです??先生もこ の解像度にはびっくりされますよ??一度実際に見て頂けませんか?」こうして解像度が何かという事も分からないまま何台か注文を頂きました。私は今でも思 うのですが、当然知識は必要なのですがまず大事なのは売ろうとする「気」の強さだと思います。その頃は不思議なほど恐いもの知らずだった「気」がします!?今はとても恐いものが多くなっていますが・・・。



私の原点はやはり佐世保です・・・
佐世保時代、私は数えきれないくらいの素晴らしい人との出会いがありました。その一人が、S中央病院K用度課長との出会い です。そしてその病院が福岡に三百床の病院を出す計画が本決まりになったのです。約二年間この計画を追いながら色々な勉強をさせてもらいました。同時期い くつかの新規開業物件を手がける事になります。その中にあのF先生もおられました。病気で倒れられた後奇跡的に回復され、結局唐津で開業されることになっ たのです。そんなこんなで私も福岡営業所に転勤する事になり更なる出会いが始まる事になるのです。

 

書き始めるととりとめもなく様々に書きたいことが出てきて収拾がつかなくなってしまいました。ひとまず第一巻(!?)はここらでピリオドを打つ事にして福岡営業所からの「イズムの継承」また次回に残します。
いずれにしても入社当時、このちっぽけであった会社での仕事はある意味家族的で牧歌的(実際は全ての人が大変忙しかったのですが・・・。)雰囲気があった 様な気がします。その時の気分は私的(わたくしてき)には司馬遼太郎著「坂の上の雲」の次のような文章と重ね合わせる事ができると思っています。最後にそ れを引用して終わりとします。

『このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがて彼らは日露戦争という途方もない大仕事に無我夢中で首を突っ込んで行く。 最終的には、このつまり百姓国家がもったこっけいなほどに楽天的な連中がヨーロッパにおけるもっとも古い大国の一つと対決し、どのようにふるまったかとい うことを書こうと思っている。楽天家たちはそのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一乃の白い雲 が輝いているとすれば、それをのみ見つめて坂を上ってゆくであろう。』
                                アイティーアイ株式会社
                                取締役  大籠 正
 今から28年前 1982年(昭和57年)7月23日の夕方頃 私と同僚の荒木君は大村地区の開業施設(医院)でレセプトコンピュータ(レセコン)のデモンストレーションを行い、院長と院長夫人の評価をどう捉えて今後の営業をどのように行うかということを営業車の中で語り合いながら長崎本社に向かって帰途に着いていました。夕方の6時前後位だったでしょうか?
 諫早を通過したあたりから本格的に降り出した雨は、多良見町を通過する頃はワイパーを最速にしても間に合わないほどの本降りとなってきました。それこそ今までに誰も経験したことないほどの雨降りだと思うほどのひどい雨です。矢上町を抜け日見トンネルを過ぎたあたりから交通渋滞となり蛍茶屋の電停まで降りてくるのにかなりの時間を要したことを覚えています。  
 
 未だ私達は無事に蛍茶屋まで降りて来れたから良かったものの後何台かの後続の列にいたら本河内ダムで発生した土石流に飲み込まれ数十メートル下の河川に滑落していてこの世の生を終わらせていたことでしょう。これは翌日になって判った事でしたがこの時の水害で亡くなった方が299名との事でした。このダムの土石流でも十数台の車が流され多くの方が亡くなっていました。
 
【崩落した国道34号線~日見トンネル西側付近】
 
 蛍茶屋からお諏訪さんへの県庁前通りまで辿り着くのがまた一苦労でした。道路は冠水しており軽自動車等が動かなくなったせいか、あちこちに放置してある状態です。営業車には高額なレセコンを積んでおり、なんとか安心安全が確保出来るところまで持っていこうと思い、マフラーからエンジンに水が入らないように半クラッチで空ふかしを強く意識しながらどうにかお諏訪さんの県庁通りに到達し、大波止の長崎県警の所まで持ってきました。事務所の駐車場は多分水位が高いはずだろうから県警前の路上駐車の方が安全だろうと判断した次第です。
 
【見るも無残な眼鏡橋】
 
 
 営業車を置き県庁のとこから本社事務所までは未だ豪雨の影響で膝上までの冠水状態を帰社してきました。皆さんが営業員の帰りを心配してくれて待っていてくれましたが、当時の本社倉庫が今の「ペンション出島の木」の横の駐車上にプレハブで建ててありまして、そこで床上浸水が始まっておりダイアライザー他の商品が濡れ始めているとのことで急遽事務所にいた社員で一階の商品を二階にリレー方式で退避させました。息つく暇もありません。
 
 倉庫から事務所に戻ろうとすると道路は急流の川の状態です。近くの商店の小物等品物が海の方に流されていきます。後からの情報では会社の前の洪水は未だ大人しかったほうで酷いところは家も自動車も一気に流されていました。
満潮時の大潮の時と、この記録的な大雨が一時に降ったことの時間が重なり被害が大きくなりました。夜半過ぎには雨も止み大潮も終わり水害の終息を迎えましたが長崎市内への各道路は完全に寸断されライフラインも止まり陸の孤島となってしまいました。
 
これからが大変な復興劇の始まりなのです。救援活動を主体とした市内の援助の為に大村の自衛隊が陸路を徒歩で大津経由で来てくれました。
会社としては社員に怪我や事故も無く商品も大きく被害を受けずに事なきを得、一夜を明かしました。それでも翌日から倉庫の一階の片づけやごみ出し、泥水に浸かった営業車の掃除等などやることが満載です。
 
【矢上付近】
 【崩落した国道34号線 ~ 日見トンネル東側】
 
 
市川社長(当時)に陣頭指揮を取って頂き社員が一丸となって事にあたっていったのです。翌朝に社長が出社されて私以下数名を連れて被害の少なかった町の方に出かけていきます。「何を手伝うのかな」と判らぬまま付いていった私達を今でいうコンビニに案内し水、食糧等と、とにかく口に入るものを購入してもらったのです。しかし同じことを考える人は多く、行く店行く店食料品は少なくなっているのです。とにかく山の手の被害の少なかった店をかなり廻ってある程度の買い物をすることが出来ました。事務所に戻って来てから、社長はそれらの飲み物と食料品を出社して来ている社員に平等に分配するよう指示を出されました。
 
 少なくとも米だけは自宅にあるので一日二日の食事には困らないと思っていた私でしたが、その後の事や独身社員の事を考えればこの時の社長の取られた行動が本物のリーダーシップであると頷けたのでした。社員の生活が守れなくてお客様への奉仕が出来るはずがない。多分そういうふうに考えて社員の生活を第一義に考えてもらえたのではないだろうかと思ったのです。自分達はそういう社長の下で働くことが出来ている。まっこと社員冥利につきる職場だと思った次第です。
こんなやりがいのある職場はないぞと思った28年前の初心を忘れることの無いよう再度鉢巻を締め直し残りの会社時間をまっとうしていきます。
 
また中堅の社員の皆さんも若手の社員の皆さんも物事に積極的に対処されていき自分の中に新しいISMを作っていかれる事を希望します。内容は違っても、その中に私達と同じ会社に対して共通の感じるものを持つことが出来るはずです。「時代を超えて会社に対しての共有出来るものを持つ」こんな一体感を感じる素晴らしい体験はありませんね。頑張りましょう生きている限り!
 

『今は昔』

2010-1-4 9:00

                                                アイティーアイ株式会社


                                                専務取締役  内田 正明


 


入社当時の頃を思い起こすに当たり、自身の入社年月日を改めて調べてみると、昭和53年(’78) 12月11日でありました。従って、現在31年目であることに気付かされ、あっという間の30年間であ った様に思えます。

また、昨年のキックオフでは、毎年総務の仕事として準備していた永年勤続の30年表彰が私の番でした。本当に月日の流れは早いものです。


本題に入り、昔の記憶


 


  その1 「入社面接」

私の入社面接は、市川商事(ITIの旧社名)を紹介して下さった方(市川会長が親しくされている御友人:N社長)が会社まで案内して頂けるとの事で、一緒に行くと、その会社の建物は普通の民家の二階建の一階を借りたもので、たまたま裏口から入ったとは言え、入口は家庭用サッシの引き違い戸、そしてその入口近くは丁度応接室の裏側となっており、安いベニヤ板張りでした。もしも自分一人で面接に行っていたら、たぶんその建物を見た段階で帰っていたかも知れません。



今思えばN社長に感謝、感謝です。またその面接も紹介者であるN社長と一緒で、入社以来私も総務・人事の担当者として市川会長と共に約30年間、面接を行っていますが、この様な採用面接は経験がありません。


 


 


  その2 「初めての貴重な仕事?」

入社初日の仕事は経理帳簿の月合計金額の上に線を引くこと、また倉庫では曲がったクギをトンカチで、真っ直ぐに伸ばすこと(昔の積層型ダイアライザーは大きくて重く木製の型枠に入って入荷して いた)でした。経理も知らない、何も出来ないとは言え、何でこんな仕事をと思いつつ、入社面接時の説明では営業企画的な仕事をさせてもらえるとのことで入社した筈でした。


入社して会長曰く『企画の様な仕事をするには会社の内容をよく理解しておく必要がある。会社の内容を理解する早道は会社の経理を覚えることである』との事。それから30年が経ちました。


未だ経理の仕事は覚えていないのでしょうか?営業企画の仕事はどこへ行ったのでしょうか?



実はN社長より市川商事への就職の紹介はその年の3月にもあっていたのです。しかし職種をお尋ねすると営業職との事から、何も出来ない、世間も知らないとは言え、私はせっかく大学も工学部を卒業しているしと考え、若気の至りでお断りしていたのです。後々、会長にこの事を言うと 『ろくに授業にも出ず勉強もしていないくせに何を言うか』 との事。全くその通りであります。


 


 


  その3 「信じられない本当の話」

昔、本社では社内で出た箱や梱包材などを市営のゴミ捨て場へ男性社員が交代で捨てに行く決まりがありました。ある先輩社員T氏は自分の当番になると急に仕事が入る方で、いつも事務所に居る男性社員は私一人の為、よくゴミ捨ての代役をさせられていました。そのT先輩が久々に当番としてゴミ捨てをされた月末の棚卸の時、仕入れて倉庫に置いてあった高圧蒸気滅菌器が見当たらないのです。全員でどこを捜してもなく、まさかT先輩が捨てたのではとなり、尋ねると 『知らない』 との事。


確かに一人では簡単にかかえきれない筈(大きさはビジネスホテルによくある小さな冷蔵庫、重さは20kg~30kg位か)なので一同、納得。そして、翌日T先輩は朝、出社されないので 『ゴミ捨て場で捜しているのだろう』 と言っていると飲酒の為、遅刻。阿部専務(当時)が 『念のため、ゴミ捨て場を捜して来い』 との指示。何と、しっかり捨てられていました。T先輩の怪力とノー天気さにはビックリでした。また、この事件で上司であるT課長がT先輩に説教しているとT先輩曰く 『困ったもんです』 と発言。T課長 『困っているのは俺だ!』 と激怒。漫才みたいな会話を側で聞いていた社員は思わず吹き出す始末でした。





結局、そのT先輩は程なくして退職されました。世の中色んな人が居りますが、当社も段々成長する に及び、良い社員が入社してくれて、今や贔屓目かもしれませんが、真面目な社員が多く揃っていると思います。役員の一人として大変嬉しく思って居ります。


 


以上、昔の思い出3題でした。

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