アイティーアイ株式会社

                               常務取締役南部ブロック統括部長  宮路 勝彦

はじめに

私は昭和57年7月に設立2年目のアイティーシーに入社しました。

当時、扱う商品はJ&J(ジェルコ、スティムティック)カテックス(心臓カテーテル)など限定されたメーカーの商品でした。それ故に必死に販売活動に努めました。(今のアイティーアイは羨ましい程扱える商品があります)アイティーシーにて約2年半営業活動に励んで当初の目的である鹿児島営業所開設に向けて昭和59年12月市川商事(当時)に異動しました。鹿児島営業所は阿部専務(当時)と出張して鹿児島市郡元3丁目秋葉マンション2階に決定(阿部相談役 ‘七人の侍’の中で紹介されました)

長崎での約1ヶ月間の研修を終えて昭和60年1月24日長崎本社から鹿児島に営業車(サニーバン)で長洲経由で移動したのをしっかり覚えています。

 

Hop(始動)

昭和60年1月29日 照国神社にて鹿児島営業所開設の神事を市川社長(当時)阿部専務(当時)宮路の3人で執り行い、その時市川社長から言われた“「創業の志」を持って取組みなさい“の言葉に責任の大きさを強く感じると共に沸々と湧き起こる“やる気”が今でも原点になっていることは言うまでもありません。

 

 

 【写真は照国神社の神事で愛車サニーバンと共に】

 

 

【写真は神事の翌日1月30日鹿児島事務所内で市川社長(当時)と】

 

当時、鹿児島に於いて殆ど取引が無く新規開拓(飛び込み営業)が全てでした。

毎日の営業活動は会社の紹介から始まり扱っている商品の説明等を行い現在の新入社員と同様に飛び込みの毎日が続き扱い商品はアイティーシーの延長でJ&J、カテックスが主力商品だった事をはっきり覚えています。2月から本格的に動き出して初受注は国立南九州中央病院(当時)でアルゴン イントロデューサー10セットであったことを鮮明に覚えていますと共に感謝の気持ちで一杯でした。(2月の売上はこれのみでした)

日々の営業活動に気持ちを高めながら取組む毎日でしたが扱うメーカー、商品も限られており苦労も多かったが逆にJ&J、カテックスの商品には大変有り難く自信を持って販売に専念できた事は現在の鹿児島の礎を築く力を与えて頂いたものと感謝しております。

 

 

Step(躍動)

最初の営業所(郡元3丁目)から営業所らしい事務所に早く移りたいとの思いが強くなりその為には売り上げ(利益)を増やして満足な状態にすることが条件でした。(この事は今でも同じです)

しかし、1人の力には限界があり仲間を増やすために売上(利益)を伸ばし増員出来る状態に持ってくることに注力しました。その思いが現実となり昭和61年9月に仲間1名(営業・早崎君)を迎えることとなりました。鹿児島に赴任する当日(日曜日)長崎駅に市川社長(当時)が見送りに来られ車中で食べなさいとビール、ツマミを頂いたと西鹿児島駅(当時)で出迎えた時に話してくれました。アイティーアイは本当に人(社員)を大切に思う会社である事をその時に強く感じ今でもこのことは変わっていないと確信します。

これこそがアイティーアイのISMではないでしょうか!

2人体制になり時間の経過とともに取引きのお客様も増え、取引きメーカーも徐々に増え念願の新事務所への移転が昭和62年12月に実現することとなりました。



【写真は2番目の営業所・上之園町・2階と当時のオールキャスト】



2番目の営業所に移転して翌年の63年4月うれしい出来事がありました、新入社員2名がやって来たのです!!営業1名(平島君・現宮崎支店長)、事務1名(馬渡さん)一気に事務所が賑やかになり一人でスタートした鹿児島営業所は営業3名、事務1名の立派な営業所へと成長への道を歩み始めました。(望みは諦めない限り、失わない限り思い続けて努力する事で叶っていくことを実感した時でした。

その間、宮崎方面への営業活動も並行して取り組んで宮崎大学、県立宮崎、県立延岡との取引も始まり少しずつ売上げも増えていきました。この事も一つの切っ掛けとなり平成6年1月17日宮崎営業所が開設されました。スタート時の人員構成は営業2名事務1名で営業を開始して目粉しい成長の結果は現在の宮崎支店へと繋がっています。(当時営業の1名は現宮崎支店営業3課 櫛間次長です。)






【写真は現会長、当時の所長と私】


Jump(挑戦)

営業所らしい体制のもと、営業、事務 みんなが一丸となり頑張り続けお客様やメーカーのご支持を頂き売上、利益の増加と共に営業員の増加に繋がり2番目の事務所もいよいよ手狭となってきました。そこで更なる発展を目指して3番目の事務所への移転を検討することとなり平成2年11月に3番目の事務所(武町)へ移転しました。






【写真 社長、阿部専務と神事にて・当時】


会議室も常設した快適な事務所での営業活動は一人ひとりが自分のやるべき事を自覚して役割を果たすべく必死に頑張っていました。日々コツコツとひたすらに努力を続け4人所帯から8人へと倍増して事務所も仕事も活気に溢れ勢いを更に増していきました。

広いように思えた3番目の事務所も7年間の営業活動を続けた結果、嬉しい事に手狭となり平成9年9月今までとは考えられない大きな事務所へと移転する事になりました。広さワンフロアー60坪の2階建てと営業・事務室も倉庫も広々とした環境の整った立派なもので全員がワクワクする快適な鹿児島支店となりました。この移転を機に営業所から支店へと昇格して支店全員が嬉しさと共に頑張るぞ!の気持ちを奮い立たせた事は言うまでもありません。これが4番目の事務所(小松原4丁目)現在の鹿児島支店です。


昭和60年1月の営業所開設から24年の年月を積み重ねてこの様に大きな支店へと変革してきた原動力は何と言っても市川社長(当時)、阿部専務(当時)が若かった私に任せてもらえる事は任せて頂き、その都度助言を頂き会長の常に言われてた“ 創業の志(個人商店の経営者のつもり)で全てのことに当たりなさい ”の言葉が大きく指標となり辛い時にも我慢して頑張れたと思っています。


人の成長とともに営業所の成長、発展がありアイティーアイの目指す日本一のディラーへ鹿児島支店はもとより南部ブロックの夫々の支店、営業所が自分達の役割を自覚して責任を果たすべく自己成長に挑戦することこそ日本一への大きな原動力となり成長への加速となるものと信じます。人の成長は任されて、信用されてこそ“やる気”モードになり失敗を怖れない“勇気”が備わってくるものと思います。正にアイティーアイのISMは“人を大切にする心”、“一人ひとりが創業の志を持つ心”常々会長が言われてこられたそのものだと信じます。


これらの良き伝統(ISM)を次のリーダーの皆さんも感じて更に次の世代に繋げていただきたいことをお願いして終わりとさせていただきます。


私の新入社員時代

2009-11-2 9:00
                                    アイティーアイ株式会社  常務取締役  牟田 弘



私が市川商事(株)に入社したのは昭和五十二年四月で創立十期目でした。当時の年商は十億円で、社員数は十数名、主な取り扱いは人工透析、産業機器、デンタル商品で入社と同時に人工透析の仕事に従事しました。


現在のように入社式もなく、たしか辞令交付もなかったような・・・・と言うわけですぐに先輩(私より数ヶ月前に入社)と同行して現場において名刺の出し方、挨拶の仕方を教わりました。入社前に社長面接が終了した後、高木医院(現在の光晴会病院の前身へ健康診断に行くように言われ初めて高木院長にお会いしました。後で聞いたのですが、この健康診断が第二の面接で、どうゆう会話をしたのか後で不安になったことを記憶しています。その後入社して高木医院の担当となり院長とのかかわりが深くなりました。



  【入社当時 ~ 田島副社長(左)と私】



当時、高木院長は長崎県透析連絡協議会の会長をされており長崎県の離島(特に五島列島)の透析患者の困難さを憂いておられ「五島で透析治療ができる」ことを切望しておりました。そんな思惑もあり、「新設の透析施設のスタッフへ指導できる営業員作り」という名目で高木院長と社長が話されて私に白羽の矢が立ち十ヶ月間夜間透析で研修を受けることになりました。(当時は透析治療にかかわる資格制度はなし)研修内容は院長著の「透析原理」を読むことから始まりスタッフ(いわゆるテクニッシャン)からプライミングのやり方、患者への接続、装置の点検、リーク交換etc最後には腕の模型を使っての穿刺の練習それからペーパー試験にて終了。この間まず第一の感想は・・・「眠たかった」


研修時間は月水金の十八時~二十三時であるがかたずけを終えて帰宅して寝るのが一時前後でありました。しかしその後の仕事について身についたことが二つあります。

一つは、数年後盛んに行われるようになった  療法→腹水濃縮ろ過、血漿交換、血漿吸着   などスムーズに取り組むことが出来たし、今まで透析で泌尿器、腎臓内科のみの関係であったが、新しい治療に対していろんな分野の先生、スタッフと一緒に手探り状態でお手伝いできたのは、自分にとって大きな財産になりました。



          【高木医院の技師室にて】



二つ目は、スタッフとして十ヶ月もの間一緒に仕事をさせていただいて顧客の内側から外を見ることが出来ました。営業の人達も千差万別です。忙しい時訪問する人、商品だけしか話をしない人、院内のルールに則った訪問をしない人、納品しかしない人etc。






研修後しばらくして高木院長より「五島で開業している浦医院(先代の浦院長)から透析を新設することで承諾をいただいた」とのことで同行させていただき透析新設の準備に取り掛かりました。途中紆余曲折がありましたが半年後 日機装(株)製BN―2000二台、CD1―1 四台計六床にて透析室完成。私もスタッフの指導及び装置の立会いの為、消耗品、備品を箱ずめにして準備に取り掛かりました。いよいよ五島出発の朝、生憎天候は嵐の様子。運悪くフェリーはドック入り中で、客船の「五島丸」で行くことになりました。




【コイル型コンソールCD-1(CD1-1の前機種)】   【透析装置 BN-2000(左側)】




客室は満席で、大きな荷物を持った私は入れず甲板にいることに。長崎湾内はまだ凪ぎであった波は湾外にでると大荒れで、雨まで降ってきて荷物を濡らさない為に上着を掛け、その間に船酔いのため吐瀉に苦しむ処、会社から急用の船内電話が入りビックリするはで、這う這うの体で福江港に着いたのを覚えています。翌日無事に透析が終了し、一年後は上五島の有川町立病院にも透析施設が新設され、それを見届けて第二の故郷となる〔十八年勤務〕大分へ転勤となりました。


入社してから五年間、長崎で勤務しましたけど、その期間、いろんな人達の指導を仰ぎ何とか市川商事(株)社員としてのスタートがきれました。中でも書面で述べた通り、高木院長の厳しい指導のおかげで人工透析を基礎から学ばさせていただき、生まれ育った長崎を出て当時では本社から一番離れている大分で戦を挑む上で自分に「透析関連の知識」と云う武器を身につけてもらえた恩は一生忘れられません。大分時代のことは紙面の関係上、書く機会がありましたら次回と云うことで筆をおきます

 

夢の途中

2009-10-1 17:40

                                              アイティーアイ株式会社


                                              取締役  田嶋 敏彦


 


1975年(昭和50年)1月、東京から長崎に帰った私は、市川商事のセールスエンジニアの職種の募集を見て早速面接試験を受けました。

社員数9名、記憶では年商7億ではなかったかと思います。 現市川会長、阿部相談役の面接試験を受けました。何故市川商事に応募したかと言うと、商事会社にあこがれたからです、また得意であった技術を活かしたかったからです。 応募動機を話し、手ごたえを感じました。

それまで勤務していた大手の電気会社で、初代の気象観測衛星「ひまわり」に搭載される、トランジスタアンプを銅線で囲まれたシールドルームでアンプの特性試験のデータ取の仕事を任されていました。 自分が実施し合格した商品が気象衛星に搭載され一部の部品だが、これで天気予報の確率があがるのかと思うと大変やりがいのある仕事でした。 そのような仕事をしていると、この部品がどのようなルートで衛星に搭載されるのか当然のごとく知りたくなったのです。

早速上司に質問したところ、君はそんな事は知らなくていいと一蹴されたのです。 そのことを先輩に相談したところ、丁寧に教えてくれました。商事会社(伊藤忠商事)経由でシンガポールへもって行き他の部品とモジュールを組み完成するのだよ。


  そうだ商事会社に行こう!。


面接試験を受け自信があったにもかかわらず、2週間経っても返事がありません。 不採用かと少しがっかりしたとき、市川会長より「2月20日から出社しなさい。」との連絡、小さな商事会社いつかは日本を代表するような商事会社にしてやる、こう思って初出勤、その日は小雪交じりの寒い一日でした。午後4時もう少しで初出勤も終わり、友人と食事でもしようかと思っていたところ。大分に出張されていた市川会長から阿部相談役に電話が入りました。内容はあまりよく理解できなかったが、どうも大分営業所出店のための書類が急に必要になったようです。


阿部相談役の視線を感じました、会社の登記簿謄本が必要だったようです。 「田嶋お前は今日暇だろう、これから佐藤部長が書類を準備するから、電車で大分に行き社長に書類を渡してきなさい。」出勤初日から出張です

長崎駅から寝台特急「さくら」にあわただしく乗り、小倉で乗り換え、大分の西鉄グランドホテルに着いたのは夜10時です。 ホテルでは社長、竹尾さん、江崎さんの3名が迎えてくれました。 当時わたしの体重は53kg。いかにも頼りない風貌でした、「田嶋と申します本日よりお世話になります、よろしくお願いします。」型どおりの挨拶をしました。 何かひそひそ話が聞こえました、「社長あんなやつで務まりますか?」と。


 いよいよこの会社でのスタートです。


当時は本社長崎、熊本営業所だけです。 私の仕事は透析関連商品の配送および透析装置のメンテナンスです。 村上さんに教えていただき、長崎、佐世保、久留米が仕事場です、仕事は大変楽しく毎日家に帰るのが10、11時です。 「あんなやつで大丈夫か」の意味がやっとわかりました、細身ですが体力には自信がありました。当時のダイアライザーの価格は一本一万八千円くらいであったか、ワゴンに満載して納品すると5百万くらいであったと思います。 当時の透析患者数は全国で八千人くらいでした。


4ヵ月後には驚いたことに入社間もない私と、国鉄に30年勤務していた父の賞与がほぼ同額、当然父が言いました、「お前の会社は何をやっているのか、悪いことをしていないのか」と心配したのも無理はありません。



翌月には全員で香港マカオ旅行にも連れて行っていただきました。

7月には熊本営業所への転勤辞令交付。

友人の手伝いで長崎から熊本への移動、営業所に着いたら当事の竹尾所長が工具箱を抱えて私の到着を待ちわびていました。 これからすぐ菊池の家庭透析の装置の修理に行きなさい、引越しの荷物をアパートに入れなければならないのですが、友達に任せてすぐ行くように指示があり、友人には大変申し訳ありませんでした。


装置は温度異常で透析ができない状況でした、サーミスタの異常で温度コントロールが利かない状況です、昔の装置は電気回路図があり回路を追って行けば原因が簡単にわかる設計でした、サーミスタを交換し透析ができることを確認し、友人が待っているアパートに戻ったのは夜9時を過ぎていました、当時は携帯電話もないため、お礼と侘びの連絡ができたのは翌日のことになりました、本当に申し訳なかったと思います。


仕事は大変ですが、以前の会社と違い、自分自身が頑張れば会社の数字になり、自分が動かなければ数字が下がる、以前の会社は歯車の一部でさほど影響はないのですが、この会社ではそうはいかない、やりがいがある仕事です。 昭和52年最初の薬価改定がありました、当時一万八千円の薬価が一万五千円に下がりました。まだまだ外国と比較すると三倍の価格です。

市川会長から「そのうちダイアライザーが一本当たり1000円の時代になるよ、今のうちに新しい事業を考えておかねばならない」とお話がありました。

一応理解はできましが、まだまだ先のことだと思ったものです。



昭和56年本社会議室で、当時大洋漁業の子会社である林兼造船所のお客様用の宿泊施設売却の話あり、ほぼ1億2,3千万円くらいであったと記憶しています、会長はすでに購入を決意されていたと思いますが、全員に「本社事務所として購入したいが皆さんどう思うか」との質問がありました。

正直少人数で給与もよく、投資しなくてこのままでいいのではないかと、一瞬思いましたが、全員一致で本社ビルの購入になりました。 私はこの時点でいよいよ日本を代表する専門商社の第一歩が始まったと思いました。

現在370億の年商、社員数360名になりました。

入社当時の夢は変わりません、現在少し近づいたような気がします。

私の創生期のころ

2009-9-1 8:30
                                                   アイティーアイ株式会社
                                                   監査役 佐藤 隆洋
「あん人、棺桶ば運びよっとやろか」
待合室を通り過ぎる時そんなヒソヒソ声が聞こえた。昭和四十八年のことであった。
当時ダイアライザーの主流はキール型、それも看護婦さん達自身が透析器と呼ばれる装置にあらかじめ水に浸したセロファン膜を二枚一組(四枚)を張り付け、組み立てた後加圧テストを行い、フォルマリン液を充填し消毒する。翌朝フォルマリン液を捨て洗浄後血液ライン側へ生理食塩水を充填し透析がスタートする。(実際はもっと神経を使う複雑な作業と工程であった)
 
文章で書けばこれだけの事であるが当時の透析はスペース、時間、人数、腕力も必要とし、ダイアライザーを用意するのも重労働だったのである。まだ若かった私などはセロファン膜納品が夕方になった時など看護婦さんから「ハイ佐藤さんこっち、こっち」と透析器の組立室につれていかれたものである。幕張りは布団にシーツを張るのと同じ要領で、二人一組で「もう少しこっちへ」などと言いながらセロファン膜にシワを寄せないように慎重に張っていくのであるが、美人の看護婦さんとペアになった時など顔ばかり見とれて私の能率が上がらないのである。これは冗談であるが、手伝いとは言え失敗しないようにことさらに神経を使ったものである。
このような手伝いをしながら担当の先生や看護婦さん方と仲良くなって行くのが当時は新人として仕事を覚えてゆく一つの方法であったがはたして現在はどうであろうか。
    《キール式透析器(架台)》
 
 
 
ノセキールエンベロープ(商品名)が登場したのはこの時期であった。同じセロファン膜を二枚一組にセットし、しかもエチレンオキサイドガスで滅菌されており透析器に貼り付ける作業は同じではあるが相当な時間短縮が図れたものであった。
冒頭の「棺桶云々」はこのノセキールの箱の事である。詳しい寸法は覚えていないが縦、横約四十センチ、長さ百二十センチ程で小さな子供用の棺桶くらいの大きさであったろうか(私自身子供用の棺桶は見た事がないが)勿論、病院さんの名誉の為にくだんの待合室の患者さんには人工腎臓の消耗品であることを説明したのであるが私自身も駆け出しの新米、当時その患者さんにどれだけ人工腎臓なるものを理解して頂いたか疑問でもある。
 
その後当社が扱ったダイアライザーはキール型がギャンブローへ、日機装社のCDー1コイル式透析装置の開発によってコルフ型がEXシリーズコイル、そしてNKコイルとなって市場を席巻してゆく事になる。
発売当時のギャンブローは当社への供給本数は350本/月で数に限りがある為お客様の注文数通りに納品できない状況であった。また梱包もきれいなラワン材で覆われており10本入りで30Kg位の重さではなかったろうか、商品入荷の時は色々な意味でタイヘンであった。梱包をバラした時の逸話は誰かが話してくれると思うので乞うご期待。
      
 《ギャンブローダイアライザー》        《NKコイル》
 
CDー1透析装置は日機装社の医療部門を創設された松村副社長、松崎、野間田、田口諸氏が当時の日本に於ける指導的な先生方との共同開発によって誕生したと聞いた事がある。
当時キール型の透析装置しか持たなかった日機装社にとってこのCDー1の販売価格はトヨタのカローラや日産のサニーとほぼ同額であったが、市場こそ違うが、両社の車と同様に売れ行き好調な装置であったようだ。
    《コイル式透析装置 CD-1》
 
 
 
さて、当時の棚卸はいたって簡単、何しろ値が張るものはコイルとギャンブロー、血液チューブ、透析関連の小さい消耗品類と当時当社で取り扱っていた透析食材の低たん白小麦粉や減塩みそ、醤油など品数として約二十数種程であるから入りと出に間違いさえ起こらなければ絶対に在庫は帳簿と合うのである。夕方棚卸が終わり阿部常務(当時の役職)へ棚卸の報告へ行ったところ座っておられた後ろの書類保管庫からクッキーの缶らしき物をおもむろに出された。私は「おっ、おやつの時間かな?」と思いきやなんと缶の中から出てきたのは人工血管の外シャントチューブ類であった。その数三十本くらい他に血管とシャントをつなぐベッセルチップ、動静脈シャントどうしをつなぐコネクターなどざくざく、クッキー缶一缶で四、五十万円はあったろうか当時の三百六十㏄の軽乗用車が楽に買えるくらいの価値である。現在は高額な消耗品は多数あるが保険で認められたばかりの人工透析は一人の患者さんにかかる治療費は一年間で約一千万円といわれており、消耗品類も他の医療消耗品と比べると高価であった。
同居していた(市川商事が同居させて貰っていた)同じチューブでも工業用ゴムチューブなどを扱っている三信ゴムの社員がソレを見て価格の違いに驚き又、羨ましがっていたものである。
 
 
昭和四十九年二月、当社も三信ゴムから歩いて三十秒くらいの場所に独立事務所を構えた。
  《本社事務所開き(全社員)》  S.49年2月 
長崎本社にも営業部隊の社員が増えてゆき若い社員が五名ほどになったある日、某メーカーの商品研修会が福岡で開催され、私を含む五名が一台しかなかった納品用ランサーバンで一路福岡へ、当時は高速道路もなく四時間以上かけてフルオープンウインドウの汗ダクで一般国道をひた走ったがその車の中の出来事である。
当時はカラオケもなく、ましてや入社したての社員達に社内での想い出話などあろうはずもなく、宴会といえば今日あった話と歌ばかりである。燗瓶に割り箸を二本差し込み又になったところへ日本酒のチョコを挟みワイヤレスマイクの完成、小皿叩いて途切れることなく延々と歌ばかり。その時は酒こそ飲んでいなかったが気分は宴会そのもの、すぐ歌合戦で盛り上がった。暫くのちに誰言うともなく「社歌」をつくろうと言うことになり、あれこれ考えた末に旧日本海軍々歌「艦隊勤務」という歌にたどり着いた。皆、戦後生まれの面々ではあるが軍歌もよく歌った。市川商事社員の仕事に取組む姿勢と心意気を次のように作詞を変えたのである。
 
「朝だ夜明けだ我らが朝だ、今日も売ろうぜコイルとギャンブロー、行くぞ我らはメディカルパイオニア、市川商事の意気をば見せん、月月火水木金金」の完成である。そして暫く後にあの品格の無い「イントロ」を頭と最後につけたのである。とにかく何処ででもよく歌った、ある先輩と大阪出張の時であったが訪ねたメーカーの人達と大衆居酒屋で飲んだ際に先輩いわく「おい、佐藤社歌を歌え!」である「えっここでですか?」恥ずかしくはあったが立ち上がって唄ったもののイントロの部分でメーカーの人達ははずかしそうにうつむいてしまった。唄い始めて三十秒後にはその場はシ~ンとしてしまったが終わるやいなや満場、拍手大喝采であった。その後何年かして検査機器や循環器担当者の面々が自分達の商品にマッチする歌詞をつくり二番、三番が出来ていった。 
 
今は年に一、二回しか歌う機会が無いのは寂しくもあるが若い社員が時代に合った、そして自分と会社の将来に思いを馳せ第二社歌をつくっても良いかもしれないなと思っている。まだまだ書きたい事はいっぱいあるが後に待っている方々へ譲る事に致します。
日機装社、ガンブロ社には当時の商品写真を提供して頂きました、お礼を申し上げます。
 
                      アイティーシー株式会社
                      代表取締役社長 中西一三夫
                   
 
11年間お世話になった日機装株式会社を昭和562月に退職し、発足したばかりのJ&J(株)医療機器事業部の立ち上げの手伝いをしていた夏のある日、私の日機装時代の上司であり公私共に人生の師と仰いでいた株式会社カテックス元社長の故野間田誠也氏から突然の電話をいただいた。用件は市川商事の市川社長(当時)が私に折り入って話をしたいとのことであった。市川社長は昭和41年に日機装を退職し長崎で会社を立ち上げており(この経緯についてはホームページISM第1号で詳しく書かれております)、私は昭和45年に日機装に入社しましたので当時の市川社長のことは野間田社長を通して若干のお付き合いはあったものの会社の代理店の社長さんという認識しか持ち合わせておりませんでした。カテックスには私の大学の後輩を紹介して入社していたこともあってきっと後輩を市川商事に紹介してほしいという話と思いこみ指定された渋谷の高層ビルにある高級レストランに出向きました。
ステーキでも何でも好きなものを注文しなさいとのことで退職後薄給の私にはまさに涎の出るような申し出ででしたが頼みごとを受けるのだからまあいいだろうと身の程知らずの注文をしました。食事中、「中西君、私と一緒に東京で仕事をしないか?」と切り出された時は肉が喉につかえ「えッ」というのがやっとでした。私にしてみれば当時の市川商事は、売上が109千万円(手元に当時渡された第13期の財務諸表があります)の九州長崎に本拠のある会社の子会社で(ちなみに、私の生まれ故郷は北海道の旭川というところです)、しかもゼロからのスタートになる会社への転職はステーキ1枚で即答できる問題ではありませんでした
しかしながら市川社長と縷々話し合いを続けるうちに、この人となら信頼関係をもって一緒に仕事ができるかなと思い始めました。以後紆余曲折はありましたが昭和56年10月6日にITC株式会社として法務局に会社登記をし新会社の産声を上げることになったわけであります。
 
今私の手元に新会社設立前に書かれた野間田社長宛ての市川社長(当時)直筆の「市川商事(株)の東京進出について」という社用箋7枚の文書のコピーがあり懐かしく見ております。ここには今更ながら市川社長の先見性と一貫したブレのない考え、性格が良く出ていると思います。要旨を披露します。
 
 
1.       何故東京に進出するのか
    千葉に生まれ、千葉と東京で育ち、東京で商売を覚えた自分にとって東京進出は自分の人生に於ける必然です。自分にとってみれば進出ではなく帰巣本能ということかもしれません。と言っても九州を放擲して東京に自分自身が移り住むことまでは考えておりません。
    東京は政治・経済・文化の中心であり内外の多量な情報があふれており輸出入の窓口として最適であり、また人口が多く需要が巨大であり、一言でいえば商売のチャンスがゴロゴロと転がっております。反面人間性が疎外されドライな性格が強いられる事にもなりますが、当社の場合は幸いにも九州に本拠地があり人事交流によりその面に潤いを与えることが可能かもしれません。
    東京を起点にして内外の各地に進出し易いこと。
    長期的に考えて企業の危険性を分散させられること。
2.       新会社の性格
    市川商事の子会社であること。
このことは基本的な原則です。公序良俗に反しない限り一個の独立会社として何の商売をしていくのも自由ですが根本的に市川商事の利益・方針に大きく逸脱する行為は厳に避けなければならないことです。
    営利会社として必ず利益を計上して税金を払い株主に配当すること。
3.       取引商品について
医療機器、医療消耗品、産業機器その他公序良俗に反しないもの。
4.       株主の構成(略)
5.       会社の組織及び役職
(組織図あり。と言っても常勤社員は中西一人。)
    中西君は当初営業課長としてスタートするが実績を見て、部長、取締役、常務、専務と累進させて、いずれはこの会社の実質的責任者にしてもよいと思っております。これは一にかかって中西君の努力次第です。
(手前味噌ですが努力云々は別にしてこの通りの結果になっています)
 
以下省略しますが当初は市川社長の他に対外的事項は野間田社長、市川商事関係は現阿部芳男相談役が役員に就任し新会社を立ち上げることになったわけであります。この文書の終りに市川社長は次のように書いています。
「新会社が関係諸兄の暖かい協力のもとに順調に発展して、前述の社会的責任が果たされるようになり、ああ、会社を作って良かったと言えるようになればと祈っております。」
 
この文書には、市川会長の東京進出にかける熱い思いと、先を見る目そして周囲への気配りがよく表れており、今思えば当時としては本当に大きな決断だったんだなと改めて身の引き締まる思いがします。
 
さて、設立前後の話を少し書かせてもらいます。まずは場所の問題です。事務所(登記住所)をどこにするか、これについても市川会長は明確な考えを持っていました。
     本郷村には置かない(本郷には昔からのいわゆる医療機器関連会社が300400社もあり、こことは一線を画したい~本郷のディーラーさんゴメンナサイ)
     交通の便の良いところ、駅から近いところ
     美味しいものが近くで食べられること
ということで最終的には神田が一番との結論になり事務所を探すべく会長と神田駅近辺の空き事務所を片っ端から探し回り、とうとう神田駅北口徒歩2分の至近距離にある「東ビル」にたどり着き、立派な大家さんにも恵まれ、この場所でITC株式会社の産声を上げたわけであります。
 ところで会社の名前をどうするかについてもいろいろな議論がありました。結果的には、市川商事株式会社の英文ロゴであった-Ichikawa Trading Co. Ltd
から「ITC株式会社」という社名で法務局に登記をしたわけですが、後にカタカナの「アイティーシー株式会社」と登記変更をし現在に至っています。
次に販売商品ですが当時は現在と違い市川商事との営業の協業は一切なく売るものには苦労しました。野間田社長との関係で当時発足したばかりのJ&Jの医療機器事業部の商品-懐かしいJELCO静脈留置針、輸液ポンプ、疼痛除去機器Etc-でスタートしましたが思うような売上が上がりません。ただこの頃はJ&Jの営業員がITCのために良く協力してくれました。
彼らは朝ITCに直行し我々と病院回りを一緒にして夜はITCから直帰するという具合で2号社員の宮路君(現アイティーアイ常務取締役)の二人しかいない営業にとっては社員が倍いる勘定でとても助かったことをよく覚えています。設立2年目に(株)カテックスの、また3年目に(株)クラレの埼玉地区の総代理店になり何とか先が見え始めてきましたが当初の10年間は市川会長の期待に添えない申し訳のない思いで何度か辞表を出したことも今では懐かしい思い出です。
 
      設立直後のスナップ
 
ITタイムス第3号に「創立十周年に思うこと」という題で私の記事があります。
その中でも書いていますが、私にとって一番の財産は市川会長、野間田さんはじめ「人」に恵まれたということです。何とかこれまでやってこられたのは周囲の協力者、お取引先、お客様のご厚情、そして何より発足当初の宮路君、今も私の良き協力者である新美君、後にアイティーアイに転勤することになる高岩君(福岡)、岩永君(沖縄)、そして新入社員としての大塚君、白石君(長崎)、呉羽君(北九州)さらにはアイティーアイから転勤してきた石田君(以上10年目までの社員です)、そしてこの間何人かの事務の女性達、この人達がいてこそ今のアイティーシーがあるのだとつくづく感じます。楽しい時代でした。ありがとう。
 
20年経た設立当初の仲間たちと(現市川社長入社直後)
 
アイティーシーは今第28期を迎え、売上も72億円を超え社員も100人規模になりました。設立当初の10年間を顧みるとき隔世の感じがします。しかし市川会長の設立当初の先見からすると「まだまだ落第、及第点ではないゾ」と自分を叱咤激励するしかありません。企業は「Going Concern」、勝ち残っていかなくてはなりません。ITグループの一員としてこれからも社員一丸となり邁進していきたいと思っています。
 
最後にISMについて思うことを書きます。アイティーアイのISMとは紛うことなく市川会長の「先見性」、「一貫性」、そして「経営における健全性」にあると思っています。会長のこうした考えのもと会社は順調に伸びてきました。私も難局にある時は「会長ならどう考え、どう結論を出すだろうか?」といつも問うてきました。こうして出した結論は間違いのないものでした。
アイティーシーのISMとは「良好なCommunication」と「思いやり」と自分では思っています。しかしながら規模が大きくなるにつれ自分のこうした思いがだんだんと遠のいていく気がして不安になります。きっと時代の流れ、環境の変化につれこの会社のISMというものも変わっていくものだと感じています。
次代のリーダーの人達には更にグループが発展できる確固たるISMの構築をお願いしたいものです。
 
まだまだ書き足りないことがたくさんありますが次の機会があれば補足していきたいと思います。
 
                              以上
                                         アイティーアイ株式会社 相談役 阿部 芳男

ITIの礎を創った人達、現在は田島副社長を始め会社の役員、部長として先頭に立って活躍している。
時はさかのぼるが、市川会長がまだ学生の頃「七人の侍」と云う映画が上映され、監督黒沢明、主演志村喬・三船敏郎などで日本映画の最高傑作と世界中で評された。
我社にも七人の侍が大勢居た。夫々の地域で砦を築き、城を造って勢力を伸ばしてきた。この様な先輩が現在のITIを守り育てて来たのである。




《若き日の七人(?)の侍》



映画「七人の侍」は何か創業期の社員と似ているように思える。
 
映画のあらすじは、戦国時代戦いにより行き場を失った野武士が集団化して村落を襲い、略奪を常としていた。防衛のために村の百姓達は浪人を雇い手助けを頼んだ。集まった個性的な七人の侍が百姓と協力して困窮する農村を救うべく野武士と戦う物語である。少人数で市川商事を立ち上げITIの基礎を創ってくれた当時の社員は映画の内容とは異なるが戦略・団結・頑張り・責任感など精神は通じるものがあると思う。
 
創業当時は三信ゴムの社屋に同居した砦であったが「出島の木」がある場所に城を構える事ができた。市川会長が三信ゴムの仕事をこなしながら作業服姿でダイアライザーの膜を担いで納品に、また透析機器の修理の手伝いに夜遅くまで汗を流して頑張っていた頃が思い出される。仕事が一段落ついた夜は「松喜代」という和食店で七人の侍が集い、食べ物も飲み物も完食せよと教えられ、村上副参与などは先ず丼物かカレーライスから始まった。呑み代が安くつく様にと焼きおにぎりを食べる事から宴会が始まる時もあった。カラオケの無い時代であったが結構楽しくアカペラで唄いそして語り合いその日の疲れを癒していた。

   
               《当時の熊本営業所》

最初の砦は熊本郊外の八景水谷であった。
初代はOB竹尾さん、二代目は佐藤監査役、三代目を引き継いだのは田嶋取締役である。熊本は非常に成績が良く長期間予算達成、成績トップでご褒美に自宅兼事務所から独立して渡鹿に城を築く事ができた。自前の城は初めてである。
 
 次の大分の砦も郊外の高城で少しは広いが線路の横で列車が通るとガタガタする事務所と自宅が連結していた。但し、独自の城で城主は初代がOB江崎さん、二代目が田嶋取締役、三代目が牟田常務であった。
 
佐世保の砦も郊外の石原コーポで、田島副社長の新居が事務所であった、二代目は樫本部長が引き継いだ。
 
                《当時の鹿児島営業所》
鹿児島の砦は市内であるが、ダイエーの近くで郡元の市電の前であった。東京ITCから転勤して来た宮路常務の独身生活の場所がアパート二階の二部屋の事務所兼自宅であった。
 
本格的に独立した城を築いたのが福岡である。
博多駅南の総合庁舎前のモリメンビル四階である。初めて事務所らしい所に落着いた。
初代、OB竹尾さんからOB江崎さんにバトンタッチされた。事務所兼自宅は北九州の砦、佐賀の砦と続いたが誰も不平不満を云う事もなく砦を守り、石垣を造りそして城を築いてくれた。お陰で会社も順調に伸びて来たが営業車はまだ暖房完備ではあるが冷房は無く、皆な汗を流して築城に希望をもって頑張ってくれた。こんな時代を乗り越えて立派な会社に成長する事が出来た。
 
 
 映画「七人の侍」のモデルとして考えられたのが
一、              上泉伊勢守、剣聖と云われ冷静な戦略家(頭領、勘兵衛が市川会長の役割か)
二、              菊千代、百姓上がりの侍で百姓と侍の仲介役、人懐こい人物で勘兵衛に心酔している。(三船敏郎は私の役割か)
三、              塚原卜伝、軍学に優れている剣豪。
四、              宮本武蔵、兵法の鬼で凄腕の剣客。
五、              柳生十兵衛、剣豪で諸国に詳しい。

社員の誰かがその役割を果たして来たのだと思う。
これも七人の侍達のたゆまざる努力と苦労を惜しまず、目標を高く掲げて創業の精神と伝統を守って来たからである。後に続く人達は、七人の侍を手本として益々研鑽に務め全国に砦を築いて全国統一される事を願って、楽しみに致しております。


    《佐藤監査役、市川会長、そして 私》


 
 

ルーツ

2009-3-30 19:00

                                               アイティーアイ株式会社

                                               代表取締役会長 市川 雅夫

 

当社は設立42年を迎えました。設立当時の事を知っているのは私以外には居りません。その後の10年間、20年間の事でも知っている社員も段々少なくなりつつあり、設立50周年を迎える頃には尚少なくなると思います。
最近、田島副社長から、当社の設立時の頃、設立後10年、20年頃の事を若い人達は知らない人が多いので、私を含めて古い人達にその頃の事を書き残して欲しいとの要請がありました。成る程と思いますので、私が先ず思い出すままに古い事を書いてみたいと思います。幸い、平成3年7月に発行された社内報「ITタイムス」第2号創立25周年記念号が私の手許に寄せられたので、復刻版を先ず皆さんに読んで頂き、それを解説する形で話を進めたいと思います。

 

以下、黒文字の文章は「ITタイムス」の掲載文章、青文字の文章は今回、加筆した解説です。

 

 

当社は、この7月19日に25回目の創立記念日を迎える。これを機会に当時の事を少し思い出して書いてみたい。
昭和42年7月19日、何日も前から準備して整った書類に、司法書士に教えられ、緊張しながら署名捺印し、これらの書類を長崎法務局に提出して会社設立事務は全部終わった。法務局の窓口では係員が書類の不備で簡単に受付けてくれないのではないかと心配したが、意外にスンナリと受付けてくれた。何日かして司法書士から「OKになりましたよ」と言われて会社の謄本を渡された。市川商事株式会社の誕生である。

  《当時の私》 

 

資本金は100万円、社員は2名、事務所は長崎市出島町15番17号、電話番号長崎23-4168、定款の取扱商品、機械、計器等盛り沢山、こういう風に書いてくると或る程度格好がとれているが、その内容は資本金100万円は「家内のへそくり30万円と家内の母からの70万の借金」、社員は社長兼営業員兼配達係のこの私と、1才半の子連れでいつ出社するかわからない家内である。事務所は、家内の母が経営する三信ゴムの中に机1脚があるだけで、その机も三信ゴムからの借物であった。

 

電話は言うに及ばず、三信ゴムの電話である。以上のとおり、何から何まで借物づくめのスタートであったが、更に言うなら私の当時の身分は一方で株式会社三信ゴムの営業員(役付ではない)を兼任して居り、日常の時間の90%位は三信ゴムの仕事に割いていたのである。

    《三信ゴムの社屋(当時)》

 

こう書いてくると、この文を読む人は、当時の私を取り巻く状態は一体どんな事になっていたのだろう、と不思議に思われるだろうから、この間の事情についても付言しておく。
その前年10月に私は30才にして、日機装株式会社でのサラリーマン生活に別れを告げ、東京より長崎に移住した。

その当時、初代の三信ゴム社長であった家内の父が亡くなり、母がその後を継いでいた。然し、元来専業主婦が俄かに社長になったのであるから、色々苦労している様であった。そう言う状態を遠く東京で見ながらも、最初は私が手伝ってやろうなんて考えも及ばなかったが、1年2年とその苦労振りを見る中に一肌脱いでみようかの考えが起こってきた。年来、いずれ自分で会社を経営してみようという気持ちが強く沸いてきており、営業には自信満々であったから、会社を東京で始めようが、長崎で始めようが、一向に構わないとの気持ちが強かった。義母には三信ゴムへの入社の条件として、自分の会社を設立して、二足の草鞋を履く事を事前に了解して貰ったのである。
借物づくめのスタートであったが、気持ちだけは意気軒昂で、スタートに当り次の事を考えた。

 

1.    会社の将来について
長崎否九州に於いてトップクラスになりたい。社員に大きな夢を与え、豊かな生活に近づきたい

 

2.    社名について
「長崎」とか「九州」の狭い地域の冠名は付けない。又、「機械」とか「医療」の取扱商品を限定する名前も付けない。色々考えた結果、将来何を取扱っても何処で仕事をしても支障がない様に市川商事株式会社とした。「市川」を冠するのは多少古臭いイメージを感じ抵抗があったが、当時は若気の至りで三井物産、伊藤忠商事の向うを張る気持ちがあった。

*********** 【解説】 『社名について』 ******************
社名を決める時、普通個人会社は殆どの場合、社長の個人名か活動場所の長崎とか九州とかを考えるが、将来この会社を大きくしようとすれば社長の名前を付ける場合は別として、地域名をつけるのは問題である。会社が発展してその地域を越えて行けばその会社名が邪魔になる。社長の名前を付けた時はダントツに大きくなれば(三井、住友とか)別ですが、普通その発展過程に於いて、その会社を見る人によれば社長のウツワを小さく見られるのではないか。設立20周年の時私が市川商事(株)をアイティーアイ(株)に変えたのは、「市川」を取り除きたかったのである。

この時社名変更したのは、もうひとつ理由があった。当時、豊田商事事件なるものが悪事として世情を賑やかしていて、取引開拓に新規のお客様に訪問すると、「商事」が付いているだけで玄関払いをされる事が多かったのである。片仮名名前のアイティーアイは今でこそ違和感はないが、社名変更した頃親しくしていた或る有名病院の理事長先生から、「何故市川の社名を変えたのか。アイティーアイではあんたの顔が直浮かばないではないか。」と小言を頂いた。年輩の方は社長名が社名に入っていた方が親しみを感じてくれたのである。社名は何処に行っても通用する普遍的なものか、見方によってどうとでも解釈できるのがよいと思う。

又、会社名の始まりは、アイウエオ、イロハ、ABCの早いもので始まるのがよい。要するに会社名のリストの最初に始まるのがリストを見る人の目を引いてよいのである。
アイティーアイ(株)、アイティーシー(株)は上記条件にピッタリなのである。

『電話番号について』
会社の電話番号は、821-1111とか2111、3211とか昔のダイヤル番号でダイヤルし易いもの。(末の1が多いもの)又は記憶し易いものがよい。例は、824-1818(十八)、0101(丸井)。
ダイヤル式電話が少なくなってしまった今では、記憶し易いものがよくなった。当社のNo.は当時の電電公社に特別に頼んで頂いた番号である。
***********************************************************

3.    商品について
ありふれた商品は、値段だけの勝負で、利益が少ないので、ユニークな先端技術商品を主に取扱う事にした。

************ 【解説】 『取扱商品について』 ************
最近開発された商品で普及するのに時間はかかるが将来有望なもの、誰でも扱えるものより扱い難いもの。直売れたり簡単に売れるものは直競争が始まる。時間が掛り難しいものは売れるまでは時間がかかるが、売れ出すと先行者が俄然有利である。
整理すれば、特異で価値ある先端商品、普及前で将来伸びる商品、着実に伸びる隙間商品、参入するのに難しい商品がよい。

『会社の将来の規模について』
会社規模の大小は考え方により異論はあるが、私は会社の内容にもよるが一定規模の大きさが必要だと思う。会社の設立時に、将来この会社をどの位大きくして行くかはその時は大した問題ではないが、何年か経って振返ってみると、設立時に只食えさえすればよいと考えるか、食えるのは当然であり地域No.1になるとか、日本中で活躍するとか、又は具体的に既存の○○会社より大きくなるとか或る程度具体的な目標をハッキリ持つかどうかで後々大変な差になって来る。只食えさえすればよいでスタートした会社は、その後社長の意識が変わり目標を大きく変れば別であるが、大部分の会社は何年経っても大きさが変らないのは、その社長が文字通りいつまで経っても食えさえすればの気持から抜けずに、死ぬまであるいは子供に相続させるまでそのままにするからである。

この考えは社内の支店、営業所あるいは部、課の長の考えによりその店所、部課の将来が決まる事をよく理解しておかなければいけない。元々その長が発展的な考えを持っていれば問題ないが、消極的な考えをもつ者が長になった時は悲劇である。いくら指導しても変らなければ他の人に変えるしかないのである。私は最初から、九州は当然、国内全域を目標としたのである。それは慶応の先輩である電力の鬼と云われた松永安左エ門や大日本製糖を再建した藤山雷太を手本にして、とてもそれほどの事は出来ないにしても夢は大きく持ちやるだけやってみたいと思い、今まで走って来たのである。アイティーアイの規模は少なくとも年商1,000億円以上にしたいと思っている。
*******************************************************

4.    社員について
取引先の従業員と同じレベルの社員を採用して、少数精鋭として、その代わりに収入をできだけ高くする。

************* 【解説】 『社員について』 **************
お客さんと色々な面で同レベルの社員を揃える事を基本として来た。設立当初は長崎のトップ企業の三菱重工業等三菱名の会社をお客さんとして考えて居たので、三菱の社員の人達と同等に話が出来る社員の採用を考えた。後に取扱商品が医療関係になった時も病院の先生その他の関連の人達と対等に話の出来る社員を採用した。設立間もない零細企業がこの条件を満たす社員を採用するのは本当に難しいことでした。然し、安易な妥協はせずに辛抱強く一人ひとり採用して来たのが今日の社員のレベルが比較的よい理由である。私は、人材は会社経営で最重要な条件であると当時も今も思っている。

整理すれば、信頼できる人間、間に合せの採用はしない、辛抱強く新卒より教育する、取引先(お客様やメーカー)の方々と同等以上の社員。
*****************************************************

5.    取引先
無理して拡大せず、お互いに信頼出来る取引先に限る。

***** 【解説】 『取引先(お客様も仕入先も)』 *****
基本的に基盤のしっかりした総べての面で信頼性の高い会社又は公共団体との取引を考えた。特に仕入先は販売商品の供給会社であるから最重要である。開発力があり、新規商品が多く、成長力の強い会社との取引を狙った。云うは易いが行うは難しである。零細企業がこう云う会社と取引きするのは本当に難しい事であったがそれに拘った。今でこそ親密な取引をしているメーカーや病院さんでも、最初はけんもほろろが多かったのである。よくやって来れたと思う。

お客様の方々と親しくなり、仲良くなるのが大切なのは誰でも知っている。然し仕入先の方々と親しくなり仲良くなるのはもっと大切な事だと思う。社員が私一人の時は営業力が常に不足していた。その時私は仕入先の人とはいつも仲良くして、営業力不足を補って貰ったのである。また、「利は元にあり」と云う言葉がある様に仕入を安くしないと商売はウマク回転しない。私の商売は仕入先の人と仲良くする事から始ったのである。
****************************************************

6.    販売地域について
第一段階  長崎から九州へ
第二段階  九州から東京へ
第三段階  東京から全国へ
第四段階  海外進出

********** 【解説】 『販売地域』 ****************
最初から長崎県だけではマーケットとしては狭過ぎると思っていたので、一日も早くオール九州を相手にしたいと思っていた。次に開設より5,6年で東京進出を目論んで居たが、流石に簡単には行かない事と判って来た。結局、事業の基盤の安定を第一に考えて又、遠隔地に出店する時はそこの長として人格識見良にして信頼出来る人が居なければと判り、結局現アイティーシーの中西社長を探し出すまで15年も時間がかかったのである。

現在、東京のアイティーシーを設立してから28年経過して70億円余の売上高まで成長したが、首都圏以外に未だ進出できていないのは残念である。これは私の見込み違いであった。海外への進出は、10年前に上海に進出したが残念乍ら経営宜しきを得ず、傷の浅い中に一旦撤退した。中国は人口が多く、商都上海で医療機器販売をすれば成功すると勇んで進出したが日本から見る程簡単ではなかった。協力してくれた人には申訳けないが一旦撤退して再度いつか又挑戦したい。一回目はお金も掛かったが大きな教訓も得た。
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7.    その他
1)銀行は全国の県庁所在地に支店のある日本勧業銀行と地元銀行の十八銀行とする。

********** 【解説】 『取引銀行』 ***************
最初から将来の全国展開を考えて、全国の県庁所在地に支店のある日本勧業銀行さんを選んだ。この選択は結果的によい選択だった。御存知の通り、当時中位行であった同行はその後第一勧業銀行となり、みずほ銀行となり、日本のメガバンクの一行に成長し、現在も良好な取引をさせて頂いている。

十八銀行さんは地元長崎県内の取引を主に、又西日本銀行さんは九州内の取引を主に想定して取引をお願いして来たが、これ又良好な取引をさせて頂いている。
三菱銀行、親和銀行の両行さんは当社の業容拡大に応じ後で取引が始まったが、両行さんにも大変お世話になっている。

日本政策金融公庫(旧中小企業金融公庫)さんには初期の頃より、営業所、支店の土地建物を購入、建築する時には本当にお世話になった。普通銀行と違って預金なし、借入だけで金利も制度融資を利用することにより低利資金を使わせて頂いた。当社の規模は現在では事実上、中小企業の規模をオーバーしているが、未だ資本金1億円未満を維持して取引予備軍となっている。経営者の中には、借入金利が安い等取引条件が有利であれば、簡単に取引銀行を変えたり増やしたりしている会社があるが、これは取引銀行との信頼関係を損なうものであり、私はこの様な考えには賛成出来ない。問題があれば両者よく話合うべきである。
**************************************************


2)業種ごとの地域NO.1になる。

創立当初に以上の事を考えて仕事を始めたが、25年経って振返ってみるといくつかの誤算があったが当初の考え通りにやってこれたと思う。
当時、二足の草鞋を履いていた事情もあり、年間売上高は100万円に満たず、早く月商1000万円の商売をしてみたいと思っていたが、今や月商5億円は当たり前になり、隔世の感がある。
この間会社の内外の沢山の方々から筆舌に尽くせない程の御好意、御協力を頂く事が出来た。幸運であった。本当に有難い事であり、厚く御礼を申し上げたい。そして今後も引き続き、御指導御鞭撻を切にお願い申し上げたい。本来なら、お一人宛お名前を記して、お礼を申し上げるべき処であるが、誌面の関係上失礼の段、お許し頂きたい。

  

          《平成3年と平成20年の売上と社員数の比較》

 

現在当社のグループは、関連会社を含めて200名(平成3年当時)になんなんとするが、殆どの人が最近の事しか知らない。
25周年の契機にして多くの社員に当社の創業期について知って貰い、私も含めて初心に帰り今後の更なる発展に邁進したいと思っている。社員各位の一層の御協力を切望致したい。
本当はもっともっと書きたい事もあるが、又の機会に譲ろうと思う。

********* 【解説】 『運が一番大切』 ***********
私は今までして来た事業を振返り、未だ終わりない中途の状態であり、先行きがどうなるかは不明であるが、現在の処順調にやって来れたと思う。既に述べた通り、色々考えながらして来た事がそう間違いもなく実行出来た結果とも思う。良い社員、優れた商品に恵まれた。沢山の方々の御指導、御協力を得ることが出来た結果でもある。然し、人生の終盤に近づきつつある者として自分の人生を振り返ってみると、総べて何でも天の時、地の利、神様の与えて下さった運命の中に歩いて来ただけと悟る事が多くなった。

歴史上数多くの偉人が大事業を成功させているが、人並優れた頭脳と能力を持っていたが、最後は運がよかったに盡きるかと思う。私はこれから今まで以上に運をしっかり掴み放さず、そして謙虚に自分で出来る事をして行きたいと思って居る。

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